――入学試験に受かったんですね?

 はい。会社に内緒で夜勉強しました。ただ、英語については中高の教育がとても良かったので、あまり苦労しませんでした。数学は簡単で、おそらく満点だったと思います。ランドスケープアーキテクチャー(景観設計)を専攻し、もちろん大変でしたけれど、満足いくまで勉強ができた。最高の教育を受けました。世界中に同級生がいます。

経済学者の石川経夫氏との結婚式=1975年6月、米国ハーバード大学内のチャペル、石川幹子さん提供
経済学者の石川経夫氏との結婚式=1975年6月、米国ハーバード大学内のチャペル、石川幹子さん提供

 入学して半年後に出会ったのが、隣の研究所にいた夫です。東大の宇沢弘文先生の弟子で、経済学部を卒業したら紛争で大学院に行けず、宇沢先生が推薦状を書いてくれてジョンズホプキンス大学に行って3年間で博士号を取っちゃったんですよ。それですぐにハーバードの先生になっていました。純粋を絵に描いたような人で、3日目に結婚を決意し、3週間で婚約、3カ月で結婚式をあげました。26歳でした。

結婚式当日の披露パーティーでは着物を着た=石川幹子さん提供
結婚式当日の披露パーティーでは着物を着た=石川幹子さん提供

 夫が東大から呼び戻されたので、私はしばらく米国に残り、修士号を取ってから帰国しました。長女を身ごもっていたので、帰ったときは主婦をやるしかなかった。諦めの境地です。私の時代は赤ちゃんがいたら諦めるしかなかった。いまは、本当に良い時代になったと思います。

――東京ランドスケープ研究所というところでお仕事をされていましたよね?

 ここは恩師が顧問をしていた会社です。主婦をしながらでも、毎年1つぐらいならできると、帰国直後から細々と設計の仕事を始めました。だって、何もしなかったら、そのまま終わりですからね。

私が働くことに夫の両親はものすごく反対だったと思います。いい顔なんてされませんでした。「嫁が子どもをほったらかして働くなんてことは許されない」と思っていたと思います。

 この時期に私が設計したのが、新宿御苑トンネルの整備に伴う樹林地保全と再生、お台場海浜公園などです。でも、設計事務所は下請けみたいなものだったので、自分がこうしたいと思ってもノーと言われたらおしまいです。自分のやりたいことをやるんだったら、自分が意思表示して受け入れられないとダメだと思って、大学院に行こうと思いました。

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42歳で大学院、夫は応援してくれた