――それで冒頭のお子さんたちの話につながるわけですね。
夫は「学者でやっていくなら論文をいっぱい書かないとダメだよ」とアドバイスしてくれて、学者になることを応援してくれました。
当時、42歳で大学院に入りたいなんていう人はいなくて、まず卒業した学科の教授に相談に行ったら「3年でちゃんと博士号を取るなら受け入れてやる」と言われました。農学部では私のような分野を学問的にやっている人が少ないので、博士号を出してもらいにくい。それなら、他の分野で認められれば農学部の先生もダメだと言えないだろうというのが私の戦略でした。
3年間は都市計画学会、造園学会、土木学会の3つに毎年1本ずつ論文を出すことを目標にしました。1年を3つに分けて、4カ月ごとに論文を仕上げていくことにして、必死で書いた。結局、3年間で11本の論文を書いて、無事に博士号をいただけました。
それでも就職先はありませんでした。本を書いて賞をとれば、きっとどこかにひっかかるだろうと論文を集大成した本を出そうと思ったんですが、その前に夫が職場で心臓発作で倒れたんです。意識不明の状態が1年3カ月続いて、1998年に51歳で亡くなりました。倒れたとき、私は工学院大学で特別専任教授というパートタイムの仕事をし始めたばかり。収入は微々たるものでした。なのに、子ども3人と夫の両親と合わせて5人の生活がいきなり私の肩にかかってきたんですよ。
――「働くのは許さない」などと言っていられない状況になった。
そうです。幸い、慶應義塾大学の湘南藤沢にある環境情報学部が教授として呼んでくださいました。慶應の先生になってから、義父の対応が変わりました。それまでは「嫁」だったのが、人権を回復した感じ。義父も学者で、「学問をしたい」という私の思いをわかってくださり、その一点でつながりができたんだと思います。その後はとてもいい関係になりました。夫の両親は92歳と94歳で天寿を全うし、私はちゃんとお見送りしたので、心は安らかです。