評論家の荻上チキ氏と政治学者の片山杜秀氏が共著『現代語訳 近代日本を形作った22の言葉』を出版した。今「近代」の重要性が再認識されている。
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――政治家の発言が軽く、乱暴になったと言われて久しい。荻上、片山両氏は政治機能をチェックするには市民も歴史上重要な「言葉」を知っておく必要があると主張する。そこでキーとなるのが「近代」の言葉の数々だという。
荻上:2015年5月の党首討論で、共産党の志位和夫委員長からポツダム宣言に関する見解を問われ、安倍晋三首相が「つまびらかに読んでいない」と答弁しました。歴史問題に誰よりもこだわって保守を自任する安倍首相が、安保法制審議の大事な場面でさえ、歴史的文献について自分の言葉で語ることができないことに愕然としました。その一方で、批判する野党や国民がそれらを読んでいるのかというと、それも心もとない。明治維新から戦後まで、どういう国家観の変遷があり、日本が民主主義国家へと成り得たのか。近代の文書や宣言といった「大きな言葉」で捉え直すことで、歴史を振り返る。それにより安倍政権が語る国家観がいかに「つまみ食い」で、歴史的背景を無視した代物であるかも理解できます。
片山:実に構想から4年弱かかってしまいましたね(笑)。今年は明治150年という節目ですが、歴史の「言葉」は監視を怠ると「つまみ食い」されてしまうものです。政治家の不勉強もあるし、わざとやっている場合もある。歴史解釈がその人のポジションに都合よくゆがめられてしまう。明治100年当時の首相は佐藤栄作でした。佐藤や側近の日記を読むと、ひそかに軽井沢でA級戦犯に会い、東京では戦後派の若手の学者たちを招いて、戦前と戦後の価値観の分裂をいかにまるめるか腐心している。それはつまり言葉を慎重に選ぶ、歴史の総合に心を砕くということです。しかし、安倍首相は総合的に納得させる言葉の使い方ができていない。戦後70年談話にしても「この部分はこの人たちが喜ぶだろう」という言葉がパーツとして入っているだけで、前後の脈絡がなく、全体を通すと意味不明です。総合ではなく、分裂している。言葉に対する感性が鈍磨していないと、あの原稿は読めないと思う。対するリベラルの側も「『侵略』や『おわび』などの単語が入っているからいいか」という始末。自分が気持ちいい言葉を「部分的」に言ってくれるからこの人は「全体的」に正しいと錯覚して終わる。絶望的です。