荻上:安倍首相は明治150年記念式典で五箇条の御誓文を引用し、「身分や階級を問わず、若者や女性を含め、志を持った人々が、全国各地で躍動しました」と述べました。これは、五箇条の御誓文の一部にしか言及していない。最も重要な5番目の「知識を世界に求め、天皇中心の政治の基礎を発展させなくてはならない」という天皇主権部分に触れていません。部分的な引用で歴史の負の側面を排除して語るのは、歴史修正主義の典型です。政治家が「何を語っていないか」を知るには、歴史的資料を正確に理解していることが前提となります。

●言葉はその場しのぎになり、現代は「態度」の時代に

片山:五箇条の御誓文には、議会政治が大事、国民一人一人の自己実現が大事といった、普遍的な原則論が盛り込まれていますが、最後に出てくるのは、やはり天皇の国の強固なイメージです。明治以降、国内が短期でまとまったのは天皇の効用かもしれませんが、また天皇の存在があるがゆえに、常に「日本特殊論」がつきまとった。この150年間、その特殊性を抱えながらこの国は形作られてきた。五箇条の御誓文は、現代まで地続きの「根本」と言ってもいい。その意味でも、安倍首相の引用は、天皇に言及しない点で「つまみ食い」の典型に思えます。

――いわゆる「ネトウヨ」だけでなく、為政者が歴史の「良いところ取り」をして語ることも当たり前になった。

片山:1990年代に冷戦構造が崩壊しました。イデオロギー的には資本主義、国内政治で言えば自民党など正統なものに対するアンチテーゼがなくなり、全てが等価となり、現実主義になった。歴史的な視座を失ったリアリズムは、現在の力関係の中でしか世界を見ません。安倍首相は外交史家や国際政治学者などリアリストばかりをブレーンに置いている。リアリストの思考は歴史でなくゲームなのです。歴史の重みより今の手しか考えない。結果、言葉もその場しのぎになる。

荻上:80年代には「大きな物語」である近代社会に対する市民の抵抗運動として、パンクや現代アートが提示された。いわゆる「政文不一致」の時代で、政治では勝てないけれど、市民はカルチャーで共同体を形成しようと試みた。ところが、2000年代になると愛国的なカルチャーが消費の対象となり、「日本すごい」的なコンテンツがあふれ、保守の名を借りる排外コンテンツが書店で「日本論」などの謎な棚を獲得するなど、「政文一致」社会になった。政治と対峙するカルチャーという構図がなくなったのです。

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