哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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本誌はたぶん40代から50代の都会で働く女性を主たる読者層に編集されているのではないかと思う。だから自分はこの雑誌の読者に想定されていないような気が時々する。子どもの受験とか不動産の購入とか私にはかかわりのないことである。だが、例外的に8月13-20日号には「わがことか」と思った記事があった。「お墓はなくても大丈夫」である。墓の継承者がいないことを案じた高齢者たちが累代の墓を合葬墓に改葬して、永代供養をして後顧の憂いをなくすという話である。
実は私の主宰する凱風館でも合葬墓を作る計画が進行している。2年ほど前、寺子屋ゼミ(そういうものもやっているのである)で「お墓」について発表をした門人がいた。独身で子どものいない女性で、「両親の供養までは自分がするし、家の墓も兄の子どもたちが守ってくれると思うけれど、誰が『私の供養』をしてくれるのか考えると不安になる」という切実な話をしてくれた。それを聞いて、「じゃあ、凱風館でみんなのお墓を建てましょう。そうすれば、凱風館が続く限り、その時々の門人たちが順番に供養してくれるから」と私が提案した。
内田家累代の墓は山形県の鶴岡にある。私が死んだら、娘や甥たちが墓は守ってくれるだろうけれど、門人たちが墓参するにはいささか遠すぎる。道場の近くに門人たちが入れる墓を建てれば、季節のよいときにみんなで参拝して、泉下の先輩たちの思い出を語り合うこともできる。善は急げと釈徹宗先生にご相談したところ、奇遇にも釈先生も檀家さんたちの中に後を弔う人がいない高齢者が増えているので、その人たちのために合葬墓を建てる計画を立てているところだった。渡りに船で話はとんとんと進んで、釈先生が住職をされている如来寺近くに墓所を確保し、凱風館を設計してくれた建築家の光嶋裕介君にお墓のデザインを依頼した。来年にはお墓が建つことになった。過去帳は如来寺に管理して頂き、私の後を継ぐ凱風館館長が末永く法要を営む。
子どもを育てるのも、弱者を支援するのも、死者を弔うのも、ほんらい集団の事業である。「自己責任」というような尖った言葉はここには似合わない。
※AERA 2018年9月3日号