●負債額10億円の「どん底」に、できることから一つずつ
何とか止めさせて、川面に浮き沈みしていた団員を引き揚げた。
「私は一生懸命に斎藤の腹を押さえて水を吐き出させた。人工呼吸です。ようやく蘇生したが暖をとる何物もないのに困り、一策を案じてそこの数人が素裸になり、斎藤をからだで温めてとうとう命拾いしました」(前同)
サーカスで当てた唯助は、岡山の表町に映画館3館と旅館、料理屋、大衆浴場などを建てて歓楽街に変える。一帯は大阪に倣って「千日前」と呼ばれた。しかし、商才に長けた唯助も太平洋戦争の敗戦で岡山が焼け野原と化し、サーカスの再興を断念しかける。「もったいない。続けましょう」と継承したのは、娘婿の光三だった。
大阪の薬問屋の三男に生まれた光三は、日本大学を卒業し新聞社に入って間もなく、応召された。中国での戦闘で瀕死の重傷を負っている。傷が癒えて木下家へ婿養子に入った。日本がまだ占領下にあった1950年、光三は団員を率いてハワイに渡った。その後も外務省や出版界の「戦友」の人脈を生かして東南アジア各地で公演を打つ。2代目の光三の使命は、封建的なサーカス界の「近代化」だった。光三は回顧している。
「わたしが団長になった当座は、モンモンを入れた団員もおりました。ヤッパといって短刀をふところにしのばせているもの。ピストルを隠しもっているもの。外出しては喧嘩してくる気の荒いものもいましたね。わたしはそういうのが大嫌いでしてね。その改革にも十年はかかりましたよ」(宝石76年3月号)
光三は、団員の給料を月給制にし、仮設の丸太小屋をテントに変え、全国各地の地方紙、テレビ局との提携網を構築する。そして長男の光宣に社長の椅子を譲った。ところが、3代目の光宣は、45歳の若さで病没する。急遽、次男の唯志が4代目に就き、負債額約10億円という「どん底」から「一場所、二根、三ネタ」を磨いて盛り返したのだった。
「改革は焦ったらダメ。できることから一つずつ」と現社長の唯志は言う。
岡山公演が活況を呈していたころ、先乗り隊は、ある街の住民団体を訪ねていた。来春の公演地の確保に向けた「説明会」のためだ。市街地の公園を候補地にしたら、周辺住民の一部から獣の咆哮への騒音懸念が寄せられた。住民と対面した先乗り隊は、ライオンの檻の位置を遠ざけることを丁寧に説いたうえで、「これをご覧ください」と資料を差し出す。スタッフが明け方に咆哮を音量測定したデータであった。