●職住隣接で子育てしやすい、出番がきたら仲間が世話

 クラウン(道化役)のジェシー(38)は7年前に入団した。彼女はカリフォルニア州立大学ハンボルト校でコメディーを学んだ後、全米各地のショーで腕を磨き、上海を経由して来日。木下サーカスとの出合いをこう述べる。

「とっても大きな家族、すごいと思った。だって社長が先頭に立って汗水垂らしてテントを解体して、設営する大サーカス団なんて他にないもの」

 シングルマザーのジェシーは、1歳の長男と暮らす。不安はないのか?

「他の仕事より、職住隣接で断然子育てはしやすい。私の出番がきたら、舞台裏で仲間が世話をしてくれています。安心して演技に集中できる。いつまでサーカスを続けるかって? 息子次第ね。学校に上がる前に決めます」

 ジェシーは同世代の中尾梨沙(37)を「スーパースター」と崇める。中尾は、小3の長女と就学前の長男、次男の母で、舞台では空中芸を演じる。夫の展久(37)は音響・照明を統括している。夫婦の役割分担を梨沙が語る。

「認可保育園を探したり、小学校の転校手続きをするのは私の役目。短期間でも納得のいくところに預けたい。車で30分以内が圏内です。いままで保育園が見つからなかったことはありません。家事は夫の役割なんです」

 展久は「職住隣接だからこそ家庭では仕事の話はしない」と言う。

「妻は2人目を産んで舞台を降りるかな、と見ていたら、また練習を始めた。3人目の出産後、古典芸の稽古を再開しました。サーカスが心底、好きなんです。長女の中学入学前には定住が課題になるでしょうが、それまでは……」

 なかには夫が単身赴任で公演に加わり、妻子が定住する例もある。団員は移動と定住に心の振り子を揺らしながら、いま、ここで生命を燃やしている。

 木下サーカスのビジネスモデルは、一朝一夕にできあがったものではない。100年をゆうに超える風雪に耐えて結実している。

 初代・木下唯助がロシアの租借地「ダルニー(のち大連)」で軽業師を集めて旗揚げしたのは1902(明治35)年のことだった。岡山の劇場主の木下家へ養子で入った唯助は、持ち前の胆力で興行を仕切る一方、西洋式の曲馬に興味を抱き、自ら演者も務めた。

 唯助は、30人の団員を引き連れてハルビンから松花江、黒竜江を小蒸気船でハバロフスクへ下ったときのエピソードを語り残している。

「私が『酒は絶対禁物だ』というのに座員の斎藤要がウォッカを引っ掛けて泥酔し、よせばよいのに先生、船の甲板に出て用を足していた。トタンに身体が消えてなくなった。一同驚いて船長に『船を止めてくれ、人が落ちたんだ』と叫んでも露人船長一向に平気で止めるどころかドンドン航行を続ける」(山陽新報1935年8月17日付)

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