7月上旬の西日本豪雨災害で岡山県は大変な被害を受けた。4年ぶりに地元に戻った木下サーカス。被災地復興を願って演技にも力が入る(撮影/山岡淳一郎)
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英国人アーティスト、マイケル・ハウズの猛獣ショー。野生のライオンより舞台のライオンのほうが長寿だとか(写真:木下サーカス提供)
1955(昭和30)年、東京・後楽園アイスパレスで行われた公演風景。連日超満員を記録し、スポンサーには錚々たる企業が並ぶ(写真:木下サーカス提供)
木下サーカス初代・木下唯助。大連に渡り、1902年に軽業一座を率いて旗揚げをしたと伝わる。繁栄の基礎を固めた創業者(写真:木下サーカス提供)

 年間120万人以上の観客を集める木下サーカス。公演は、一カ所で約2カ月半行われ、そして次の地方都市へ移る。そのビジネスモデルは、一朝一夕にできあがったものではない。ノンフィクション作家・山岡淳一郎氏がレポートする。

【写真】英国人アーティスト、マイケル・ハウズの猛獣ショー

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 爛熟気味のエンターテインメント界に、超ロングセラーのキラーコンテンツが存在する。岡山市に本拠を置く「木下サーカス」である。創業は1902年、世界的にサーカス団が衰退するなかで、年間120万人以上の観客を集める。Jリーグの人気クラブ、浦和レッズのほぼ2倍の集客力である。

 6月9日、4年ぶりの岡山公演が初日を迎えた。2千人を収容する大テントは超満員だった。妖精が光と音の祭典の幕を開けると、強烈なライトが高さ14メートルの中空を照らす。鉄棒の上に男が立っている。命綱はない。男は両手を広げたまま前方に身を投げだした。「きゃーーッ」と悲鳴が上がると、男は靴だけで鉄棒にぶら下がった状態でグルン、グルンと大車輪で回る。「パイプレット」という荒業だ。靴に仕掛けがあるとはいえ、度肝を抜かれた。息つく間もなく、アクロバット、日本の古典芸、幻想的なマジック、ホワイトライオンのショー……と演目がくり広げられる。演技者は、出番を終えると黒衣に変身して大道具を組み立て、次の演技者の「後見」につく。屋外の店で食べ物やグッズも売る。心理的にも客席と舞台の距離が近い。

 公演は、一カ所で約2カ月半行われ、次の地方都市へ移る。団員は、日本人も、アメリカ、イギリス、ロシアなど世界10カ国から集まった外国人も、テント裏のコンテナハウスで暮らす。15人の子どもも親と一緒に生活している。現代社会の「ノマド(遊牧民)」といえるだろうか。

 4代目社長・木下唯志(68)は、独特のビジネスモデルについてこう語る。

「昔から『一場所(公演地選び)、二根(根気=営業)、三ネタ(演目)』を錬磨してきました。次の公演地はもちろん、次の次、その先と、遅くとも公演の半年前には先乗り隊が現地に事務所を開きます。地元の新聞社、テレビ局とタイアップして宣伝し、さまざまな団体を回って、地道に営業活動を積み重ねます。段取り八分、準備に成否がかかっています」

 では、団員たちは移動続きの生活をどう受けとめているのか。パイプレットを演じた請井克成(28)は、国立の金沢大学を卒業し、木下サーカス株式会社に新卒採用で入った。大学時代に熱中した「ジャグリング」を究めるための選択だった。筆記試験、体力測定、1次、2次の面接試験を経て、1泊研修で初めてコンテナに泊まる。

「布団に寝たら、枕元でウォンブォンと大音量が聞こえて飛び起きました。たまたま隣がライオンの檻でした(笑)。いまは慣れましたね。パイプレットは命綱をつけると絡まって逆に危険です。器械体操の経験もない僕があんな演技ができるなんて夢のよう。先輩に指導していただき、会社がチャンスをくれた。とても感謝しています」

 本職のジャグリングでも七つの球を操り、舞台に出ている。大学で社会学を専攻した請井は語る。「現代では定住が有利ですが、サーカスの魅力は移動です。観客と僕らの熱狂が終わるとテントは幻のように消えて、広場に戻る。千秋楽で『蛍の光』が流れるとき、いつももっといたいなぁと感じます」

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