世界の屋根から極地へ。このころから植村の冒険行が垂直から水平へ変わっていく。犬ゾリによる北極圏1万2000キロ単独走破、北極点単独到達、グリーンランド縦走……と続く。夫人の公子さんと結婚したのは、北極圏走破に出発する半年前、昭和49年春のこと。植村は独身時代にこんなことを言っている。
「平凡な家庭がほしい。 電気製品がずらりと並んだ快適な文化生活。かわいい女性と恋をし、シットをし、不満をいい、グチをこぼす平凡な生活だ。だがいま、それを思ったらぼくの負けだ」(『報知新聞』 昭和47年3月15日)
植村のアパート近くのトンカツ屋でふたりは出会った。おかわりOKのごはんを何杯も食べていた彼に対する公子夫人の第一印象は「なんて汚い人」だった。それが「子供のように無邪気な人」であることが分かり結婚へ。植村は公子夫人を口説くとき、「結婚したら山はやめます」と言ったという。だからだろうか、植村の冒険の対象が極地へ向いたのは。
北極圏走破中には、何度も公子夫人に手紙を書き送っている。その彼の興味が再び厳冬期のマッキンリーに向かいはじめる。渡米前、リュックにピッケルを詰めるところを夫人に見つかり、あわてて取りだした植村には、やはりうしろめたさがあったにちがいない。その後、渡米先から「ちょっと山に登るから道具を送ってくれ」と連絡が入る。その山はもちろんマッキンリーである。
冒頭のテレビ朝日のインタビューで、植村はこうも言っていた。
「オレが死んだらあいつが一生不幸になる」
その植村はマッキンリーの雪山に消えた。捜索打ち切りが決まった日、“待つ女”に耐えてきた公子夫人は、マスコミに「植村はいつも、冒険とは生きて帰ることだと言っていたのに……(今回の遭難は)だらしないと思います」とつぶやくように話した。
北極点単独到達、グリーンランド縦走を終えた植村の帰国会見でのひとことに、こんなのがある。
「私にとって冒険に終わりはない。たとえ体が動かなくなっても、年老いても、そのとき自分で満足できる生き方を求めてまだまだ冒険を続けます」
(文 生活・文化編集部 宮本治雄)