そして競技人生の最後に、浅田は自分自身を変えた。

●一言で言うと人生かな

 1年間の休養を経て、15-16年シーズンに復帰、その後「平昌五輪を目指したい」と宣言。しかし長い競技生活で、トリプルアクセルの踏み切りに使う左膝は限界に達しており、16年世界選手権は7位、16-17年シーズンはGPシリーズ初戦のスケートアメリカでも6位に沈んだ。苦しむ浅田に伊藤はこうエールを送った。

「年齢を重ねると、今までできたことができなくなる。折り合いをつけて自分の目指すスケートの形をシフトすることで、違う幸せがある。いまは、100%の力だけが美学ではないという、新しい真央に変わっていくプロセスにいるのでしょう」

 この言葉が、最後の決断を後押しするものになった。

 12月の全日本選手権で12位に終わったあと、2月までの2カ月間、引退を決意できずにいた。

「平昌五輪に出るという目標をやめてしまう自分が許せるのか、許せないのか、と思って過ごしてきました。自分が言ってしまったことをいままでは最後までやり通してきたので、やらなきゃいけないんじゃないかという思いが強くて、決断が延びてしまいました」

 有言実行は、浅田のスケート人生の原体験だ。

「11歳のとき、絶対にトリプルアクセルを降りると決めて夏合宿に行って、初めて降りました。そのときに、目標を達成するとこんなにうれしいんだな、と思えたんです」

 以来、掲げた目標を貫き続けたが、10代の頃と同じ夢の追いかけ方はもうできないのだと悟ったのだろうか。「引退」を決めて初めて、目標は達成されずに残ることになった。

 引退会見で浅田は言った。

フィギュアスケートは、一言で言うとやはり人生かな」

 選手卒業おめでとう。私たちも涙を拭いて、浅田の人生の第2章を追いかけたい。(文中敬称略)

(ライター・野口美恵)

AERA 2017年4月24日号

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