閉会式でバンド演奏が始まると、客席からも多くの参加者がグラウンドに入った(撮影/三山喬)
閉会式でバンド演奏が始まると、客席からも多くの参加者がグラウンドに入った(撮影/三山喬)
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空手と琉舞、エイサーをミックスした閉会式のアトラクション(撮影/三山喬)
空手と琉舞、エイサーをミックスした閉会式のアトラクション(撮影/三山喬)
「世界のウチナーンチュの日」を発案したアルゼンチン(前列中央)とペルー(同右)の県系3世たち(撮影/三山喬)
「世界のウチナーンチュの日」を発案したアルゼンチン(前列中央)とペルー(同右)の県系3世たち(撮影/三山喬)
星条旗を手に国際通りを行進する米国サクラメントの県人会一行(撮影/三山喬)
星条旗を手に国際通りを行進する米国サクラメントの県人会一行(撮影/三山喬)

 沖縄からの移民やその子孫が親交を深める「世界のウチナーンチュ大会」。沖縄人としてのアイデンティティーを高らかにうたい上げ、過去最大の盛り上がりになった。

「おかえりー!」

「ウェルカムバック!」

 那覇市の国際通り1キロ余りの沿道は無数の歓声に包まれ、パレード参加者と市民がそこかしこでハグやハイタッチを交わしている。何十年ぶりの帰郷なのだろう、車椅子で隊列に加わり、涙ぐむ高齢の女性もいた。

 5年に1度、世界各国から沖縄系移民やその末裔が集い交流する祭典「世界のウチナーンチュ大会」。第6回の今年は10月27~30日の4日間、28の国と地域から過去最多の約7300人がルーツの地を踏みしめた。

 26日の前夜祭パレードでは、国別、地域県人会別のカラフルなシャツに身を包んだ“県系人”たちがダンスや三線演奏など、さまざまに趣向を凝らして帰郷をアピールした。

 北米、アルゼンチン、ブラジル、ペルー、ボリビア……。移住先として有名な国々に入り交じり、意外なところで参加者が目立ったのは、フランス領ニューカレドニア。明治から昭和初期にかけ、数多くのウチナーンチュが鉱山労働者として移住したという。

 沖縄県民の海外移住は1899年、ハワイへの渡航から始まったとされ、戦前の総数は約7万2千人。広島県に次ぐ全国第2位の多さで、県人口当たりに換算した「約10人に1人」という比率は、群を抜く国内一の高さだ。

●身を寄せ合う力

 人々が海を渡った背景には、貧困からの脱出を新天地に託す思いのほか、琉球処分のあと沖縄でも始まった徴兵制度への忌避感もあったという。

 世界のウチナーンチュ大会は1990年、そんな各国移民の末裔と、故郷沖縄とを結びつける事業として始まり、初回に約2400人だった参加者は、約四半世紀を経て約3倍にも膨らんだ。

 海外日系人とその父祖の地がこれほど深く結ばれた県は、他に例がない。大会期間中、タクシー運転手や飲食店主らは一様に「移民の皆さんは、どれほど苦労されたことか」「ふるさとを楽しんでいってほしい」と、帰ってきた“同胞”を思いやる言葉を口にした。

 かつて南米に居住して日系社会を取材した筆者は、沖縄県人会の比類なき結束をどの国でも痛感した。バブル期に“デカセギ”として来日し、「日本人は冷たい」と幻滅を味わった日系人も多い中、沖縄県系人と母県との関係は特別なものだった。

 ハワイから参加した3世で、ハワイ大学沖縄研究センターの知念ジョイス所長は、大正~昭和初期、「ソテツ地獄」と呼ばれた毒性のある植物すら食用にした飢餓時代の移民や、戦後、米軍に土地を奪われて移住した人々を念頭に、その結束力をこう説明する。

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