「沖縄の場合、やむにやまれずに故郷を後にした『ディアスポラ』(離散した民)と呼ぶべき人々が本土移民より多く、移住した先の日本人社会でも差別に苦しんだことが、身を寄せ合う力になったと思われます」

 4日間の大会では、那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇を主会場として、空手の演舞祭や三線の大演奏会、演劇、ゲートボール大会、各種展示、シンポジウムなど無数のイベントが用意された。市町村レベルでも地元出身者やその子弟を招いての歓迎会が各地で開かれた。スタジアムの周囲には、海外の軽食や沖縄料理を楽しめる屋台が軒を連ね、連日、大勢の来場者でにぎわった。

●移民1世ルーツの調査

 沖縄県立図書館は初めての試みとして、会場の一角に「移民1世ルーツ調査」のブースを設置した。市町村史やさまざまな古い文献から1世の生まれ育った集落や渡航年などの記録を探し出すサービスだ。

 事前に照会のあったハワイ県系人の場合、古地図から戦前にあった父祖の生家の所在地まで突き止めることができ、また飛び込みの来場者でも、遠い親戚を見つけ出せた人たちがいた。その一方、連日数十人という相談者は予想を大幅に超える人数だったため、詳しい調査結果は後日、メールなどで伝えることになったケースも多かった。

 キューバからただひとり参加した52歳の2世・伊波フリオさんも、親戚の情報を求めブースを訪れた。

「キューバでは沖縄を知る親世代が減り、僕らは沖縄との新しい関係を築きたいのです」

 戦後移民が中心のボリビア勢は、1世の大会参加者が他国より多く、単独行動で親戚や幼なじみと交流した人も少なくなかったが、沖縄にすでに近しい縁者のない3世や4世には、期間中バスツアーで県内観光をした人も数多くいた。

 糸満市のひめゆりの塔や平和祈念公園には、そんなグループが入れ替わり訪れた。ガイドに引率されたペルー人の一行は、約24万もの戦没者名が刻まれた石碑が立ち並ぶ「平和の礎(いしじ)」の光景に、「こんなにも大勢の人が亡くなったのか……」と驚きの声を上げていた。

●知事が各国語で謝辞

 そのひとり、77歳の2世アルモンド・オオタさんに「今帰仁(なきじん)村(の戦没者名)はどこ?」と筆者は問いかけられ、その場所を見つけると、《太田守善》《太田守成》という人名を指し示し、「ありました。これです」と感極まった表情でつぶやいた。

 自身のおじか、いとこに当たるのか、詳しい関係は定かでなかったが、20年近く前に他界した父親から戦没した親戚について聞かされていたという。

「『シュの字(守)』があるでしょう。私のお祖父さんはシュキン、お父さんはシュクン。間違いありません、この名前は私の親戚です」

 国籍を超えた若者のグループや、ハワイからの訪問団の一部は、米軍基地問題で揺れる辺野古や高江にも足を延ばし、今日の沖縄が直面する問題の現場を視察した。

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