小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ)/1978年生まれ。山口県出身。月読寺(神奈川県鎌倉市)住職。著書に『自分に気づく仏教の学校』(角川文庫)など (c)朝日新聞社
小池龍之介(こいけ・りゅうのすけ)/1978年生まれ。山口県出身。月読寺(神奈川県鎌倉市)住職。著書に『自分に気づく仏教の学校』(角川文庫)など (c)朝日新聞社
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 まず申し上げたいのは「骨には何も宿っていない」ということです。人が死んだら、その骨は自然に返る、ただの物質です。墓をないがしろにしたらご先祖様がたたるんじゃないか、何かが化けて出るんじゃないかと不合理なことを信じている人は少なくありません。

 しかし、ご先祖様は、何代も後の世代に自分の骨を拝み続けてほしいと思って亡くなったのでしょうか。違いますよね。そもそも死んでしまえば、自分の骨がどう扱われようが認識できませんし、それをうれしいとかイヤだとか思う脳もありません。骨に意識は宿りませんし、骨は自分自身ではないからです。

 だから、夫と一緒の墓に入りたくないとか、海や山に散骨してほしいと考えるのも、本質的ではありません。たとえ夫の墓と同じになってもそれを認識することはないのです。まず、骨への執着から離れてみると、ご先祖様や供養、お墓というものが相対化して見られるはずです。

 仏教の教えでは、「我」という永続するものは実在しません。死んだら、人間ではなくても何かに生まれ変わって、生と死を繰り返し、輪廻転生すると考えます。つまり、現在の「生」が終われば、身体も骨も用済みになります。

 それゆえ、供養をすることに物質や時間や場所、もちろんお墓も関係ない。ご先祖様を思い出して彼らが幸せであるように心の中で念じたり、願ったりしてあげることが供養なのです。

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