まもなくW杯ブラジル大会が開催される。初出場を決めたボスニア・ヘルツェゴビナ代表の躍進の背景には、イビツァ・オシムの尽力があった。一時期、この国のサッカーは、国際舞台から排除されていたのである。
かつてムスリム、クロアチア、セルビアの3民族が激しく対立したボスニアは、内戦終結後も互いに憎悪が冷めず、大統領は三つの民族の代表が持ち回りで任期を務める評議会という形がとられている。サッカー界も政治に引きずられる形で、協会の会長は3人の代表が常に存在していた。この「輪番制」は一見公平のように見えるが、実際は各民族の権力者を温存させているに過ぎず、腐敗が横行していた。これを一国家一会長を原則とするFIFA(国際サッカー連盟)が問題視し、会長の一元化を要請したが、互いの不信感をぬぐえない協会の幹部たちは期限内に解決できず、ボスニアは加盟除名処分を受けていたのだ。
この問題を解決するためにオシムは奔走。各民族の政治家や関係者に会って会長の一本化に導いたのである。無事に国際舞台に復帰できた代表チームはモチベーションも上がり、見事に予選を1位突破した。
地元のメディアは、「オシムは欧州議会や国連ですらできなかったボスニアの統一を成し遂げた」と讃えたが、なぜ彼だけがこの難事業を完遂できたのか。
「組織と個人」という観点から述べるならば、彼が「自由人」であったことが大きな理由として挙げられるだろう。
オシムは旧ユーゴスラビア時代から、つねにサッカー界のリーダーでありながら、あらゆるものから自由であることを望み、それを貫いてきた。広く知られることであるが、旧ユーゴが崩壊する過程で代表監督を務めたオシムは、各共和国のナショナリストやマスコミから、「自分たちの民族の選手を使え」という強烈な圧力を加えられていた。しかし、そのプレッシャーに屈することなく、強化を一義に考えて、チーム作りの軸を揺るがすことはなかった。
「その選手が素晴らしければ(当時ユーゴで最も抑圧されていたとされる)コソボのアルバニア人で代表の11人をそろえてみせる」というのが、当時のコメントだ。そして内戦が始まると、どの民族にも加担せずに代表監督を辞任した。
かようなオシムの生き様を見ていたボスニアのナショナリストたちは、説得されると口をそろえた。
「彼が言うのならば、信頼する。政治家の我々も協力しよう」
※AERA 2014年5月26日号より抜粋