野村克也さん (c)朝日新聞社
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写真=(c)朝日新聞社
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 プロ野球で強打の捕手として活躍し、ヤクルト監督として3度日本一に輝いた野村克也さんが11日、死去した。84歳だった。引退翌年の1981年から6年間続いた本誌連載「野村克也の目」では野球のおもしろさ、奥深さを伝えた。初代担当の川村二郎さんによる追悼文を掲載する。

【写真】75年、史上2人目の600号本塁打を達成した時の野村さん

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「週刊朝日」の編集部員の時、最も気の進まない仕事に、プロ野球の話をまとめるのがあった。朝日新聞運動部のプロ野球記者や、“親戚筋”の日刊スポーツの記者、野球解説者の話を聞いてまとめるのだが、朝日の記者も日刊の記者も、一番面白い話は自分で書く。記者とは、そういうものである。で、私たちに話すのは、“セコハン・ニュース”になる。いつもセコハンは、耐えられない。

 ある時、世の中の女房役の役目を特集することになり、南海ホークスの監督兼捕手の野村克也さんのインタビューにいった。

 野村さんは、いいキャッチャーになるのは「壁の額がゆがんでいると直したくなる貧乏性か心配性の人間ですよ」と言って、自分はそういう人間です、と言った。人間をよく見ている人だなという印象が残った。

 この印象が強かったので、1980年の暮れに編集長に野村さんの人間観を話し、「本誌専属の野球評論家として、抱えたらどうですか」と言ってみた。

 私は、プロ野球に大して興味がない。セコハン・ニュースと手が切りたいばかりに野村さんを提案しただけである。ところが編集長が「二郎ちゃん、自分でやれよ」と言って、親しい運動部長に「一席設けてくれよ」と頼んでくれた。

 銀座の料理屋に現れた野村さんに企画の話をすると、「朝日で仕事をするのは名誉です」と、二つ返事で引き受けてくれた。

 企画のタイトルは「野村克也の目」と決め、似顔絵はイラストレーター、山藤章二さんにお願いした。

“装い”は決まったものの、何を書くか、全くチエがない。まずは野村さんと毎日、巨人戦を見ることにした。巨人に王、長嶋が在籍し、プロ野球人気を支えていた時代である。

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