冬に川に出るのが寒くて嫌で、仮病を使うこともあった少年が、「本気」になった瞬間でもあった。
カヌー・スラロームは日本では「マイナー競技」と言っていいだろう。欧州のライバルたちが、日常的に、激しい流れの人工コースで練習する一方、日本にはその環境がない。
子どものころから、週末に父・邦彦さんの車で自宅のある愛知県豊田市から数時間かけて富山県の天然コースに通ったが、限界もあった。そして、高校3年の夏、遠征先の欧州から父に、
「ヨーロッパへ行かせてほしい」
と手紙を書いた。
高校を卒業した06年、向かったのがカヌー強国のスロバキアだった。東欧に位置し、人口約550万人という小国を選んだのはなぜか。
理由の一つは、憧れの人がいたからだ。ミハル・マルティカン。羽根田が初出場し、予選敗退した08年北京五輪でも金メダルに輝いた、同国の英雄的存在だ。ときめく希望と強い決意を胸に、日本を飛び出したのだった。
とはいえ、スロバキアに何かつてがあるわけではない。
「自分で一から、環境をつくった」
片言の英語でコーチや練習パートナーを探し歩いた。実績のない18歳を支援してくれる企業はなく、生活費を含めた年間数百万円の費用は、邦彦さんが支えた。
ほどなくして、羽根田は練習場で現在のコーチ、ミラン・クバンと出会う。マルティカンとも親交があるスロバキア人の指導について、羽根田はこう言う。
「パワーより、水を支配するような技術を磨く。僕に合っている」
北京五輪後、12年ロンドン五輪を目指して専属コーチになってもらうと、その才能は磨かれていった。
ロンドンで7位入賞を果たすと、29歳で迎えたリオ五輪で銅メダルに輝き、アジア人として初めて表彰台に立った。
過去のメダリストを見ても、ほとんどがヨーロッパ勢というこの種目で、アジア人がメダルを取ることがどれほどのことか。
「僕が日本を飛び出した10年前には誰も信じていなかった。でも、僕は本気だった」
日本から1万7千キロ以上離れたブラジルの地で、羽根田は顔を覆って涙にくれた。