その母が病床で「私、もうバイオリンが弾けないかもしれない」と、涙を流す姿を見て、ゆきこさんは手を握りながら「元気になったらお母さんが行きたかったウィーンに行こうね」と、励ました。

「幸いにも当時、父は仕事をしていたので、父が働いているうちにできるだけ母を回復させたいと思うようになりました。海外旅行に出かけられるくらい元気になれば、私も仕事に出られるはずだと。しばらく母の介護とリハビリに専念することにしました」(同)

 母は平日、デイサービスに行き、週1回、訪問リハビリを受けた。さらに、ゆきこさんと「旅行に行くためのリハビリ」をした。例えば、街中を観光できるように標準型の車いすに座れるようにした。12時間ほど車いすに座って過ごす訓練をしたほど。機内の狭いトイレでも用を足せるように、手すりに頼らずにトイレを使う練習や、レンタカーを借りて車の乗り降りをするなど、できる限り体を動かした。「リハビリ病院から自宅に戻るとほぼ寝たきりの状態になるケースが多い」と医師からも告げられていたが、「ウィーンに行く」ためにリハビリを繰り返したことで、少しずつ体の状態がよくなってきた。

「音楽家たるものは、ウィーンに行かずして死ぬわけにはいかないと(笑)。車いすで暮らすのはしんどいですが、新しいことにチャレンジするのは楽しい。がんばりました」(浩美さん)

 ウィーン旅行から帰ってきてから、浩美さんはピアノやバイオリンを右手で積極的に弾くようになり、本も読めるようになった。

「つい最近、右手を使ってパソコンで文章が書けるようになった。ウィーンに行ってから不思議な力が出てきたのです」(ゆきこさん)

 文字どおり、お出かけが最高のリハビリになったのだ。

 ウィーンの街は、石畳の道路脇に、車いすが通れる歩道が整備されて、公共交通機関や観光地でもバリアフリーが整い、不便を感じたことはなかったという。

 日本では来年の東京オリンピック、パラリンピックに向けて、国はバリアフリーの環境整備を進めている。

 国土交通省では19年9月から新築ホテルは客室総数の1%をバリアフリー対応の客室にするように整備を義務づけ、観光庁も高齢者や障がい者が旅行しやすいようにユニバーサルツーリズムを推進している。(ライター・村田くみ)

週刊朝日  2019年8月9日号より抜粋

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