SNSで「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれるノンフィクション作家・山田清機さんの『週刊朝日』連載、『大センセイの大魂嘆(だいこんたん)!』。今回のテーマは「愛する」。
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ある女子大で日本文学を教えている先生と、お話をする機会があった。
「ヤマダさん、先日、ゼミの学生にある課題をやってもらったのですが、驚くべき結果が出ましてね……」
大センセイと紛らわしいので仮に本物先生と呼ぶことにするが、本物先生は研究の一環で日本語の変化を調べておられる方だ。
本物先生が学生さんに出した課題とは、いくつかの単語を精神に関するものと、身体に関するものに分類してもらうというものだった。
簡単そうだが、よく考えてみるとそうでもない。
たとえば、「手」や「足」が身体に関する単語であることに異論をはさむ人はいないだろうし、「夢」や「希望」は精神に関する単語で問題なかろう。
では「心臓」はどうか?
臓器の名称として使われる場合もあれば、
「あの人、心臓強いよね」
などといった使い方をされることもある。
前者は迷わず身体だろうが、後者の場合は判定が難しい。難しいけれど、えいやっとどちらかに分類してもらうことによって、日本語の変化を読み取ろうというのが、本物先生の狙いである。
本物先生が面食らったのは、「愛する」という単語の分類結果であった。
「なんと、大半の学生が『愛する』を身体に関する単語に分類したのです」
なんだか、ちょっとエロティックなお話ではある。
「愛するというのは精神の営みでしょう、それを身体に関する単語に分類するなんて、近頃の学生は渡辺淳一の小説なんかを読み過ぎなんじゃないでしょうか」
引き合いに出す作家を間違えている気もするが、大センセイ、本物先生が直面した状況がよくわかる気がした。
なぜなら、大センセイも同じような意味で気になっている言葉があったからだ。それは、「痛い」である。