途方に暮れていると、ラジオから聴取者の投稿が流れてきた。
……貧乏な彼氏と炬燵に入っているとき、蟹鍋が食べたいけどそんなお金ないねと言うと彼氏がちょっと待ってろと言って家を出ていった。しばらくするとスーパーから電話がかかってきた。○○という男を万引きで捕まえたが、あなたに電話をかけてくれと言っている。あなたはこの男の保護者なのか? あわててスーパーに駆けつけてみると、彼氏が机の前に座らされている。机の上には冷凍のカニの脚が置いてあった……
なんだか胸が苦しくなってしまって、部屋を飛び出した。夕暮れの街を徘徊していると、駅裏の路地に真っ赤な財布が落ちていた。マジックテープ式の、いかにも安っぽい財布である。
大センセイ、拾い上げて札入れの部分を開いてみると、なんと、数枚の一万円札が入っていたのである。しかも、運転免許のように身分を証明するものは一切入っていない。
咄嗟に、頭の中で足し算をした。全財産にその数枚の一万円札を足せば、ギリギリ翌月の家賃を払うことができる。「家賃滞納者」という不名誉な烙印を押されずに済む。
「ああ、神様……」
大センセイ、財布の中身を迷わず盗んだ。正直言って、悪いというよりも、感謝の気持ちしかなかった。
家賃はいまだに重いが、重い物を背負うのが悪いことだとは限らない。
中村武志は『引越』(作品社)という、抜群に面白い随筆集を編んでいる最中に逝った。間借の経験がなければできない仕事である。
※週刊朝日 2019年3月22日増大号