私はいままで写真展で、どれほどお金を使ってきただろう。相当な金額だ。
何故、写真展を開くのか。もちろん、撮ったものを観てもらいたいという思いがある。外に向かって自分が撮ったものを観てもらうことは、一つの宣言だからだ。
それとは別に、みずからの「意地」を自覚する。写真家であること、そうであり続けることの存在意義が写真展にはある気がする。
以前、写真を撮らせていただいた、ある俳優さんが「俳優は舞台をやらないといけない。舞台さえしっかりやっていればいい。いい芝居ができる」と口にした。それは「テレビばかりでていては、よい芝居ができなくなる」という意味だった。
その言葉を聞いたとき、写真家にとって写真展がそれに当たることに気づいた。どちらもお客さんがわざわざ足を運んでくれて、直接目にするものだ。ある期間がすぎたら、もう簡単に観ることはできない点も共通する。カタチがあるようで、実はない。その場かぎりの儚さを持っている。多くの場合は、一回限りでもある。
写真展にはさまざまな人が来てくれる。ありがたいことだ。知り合いはもちろん、たまたま何かで写真展のことを知った方などもいる。思わぬ言葉を聞くこともある。見当違いや、腹が立つことを言われることもある。それでも黙って聞く。入った瞬間に、くるりと回転して帰って行った人もいる。
面白いのは、男性と女性では言うことが、ぱっきりと別れる点だ。男は、カメラは何を使っているか、フィルムは何か、印画紙は何か、撮った場所の具体的な地名はどこか、という質問が多い。
女性は自分が感じたことを口にする。作者としてはその方が断然うれしい。あの写真を観て、こんなことを感じた、自分に起きた過去のこんな情景を思いだしたとか、心情を語ってくれる。女性の方が、写っているものに捕らわれずに自由に作品を見てくれる印象がある。
写真展の中から一点だけ選んで「私は最初から何番目のあの写真が好きです」と口にするのは必ず女性だ。男はそんなふうには写真を見ていない。
来てくれた人には感謝するのだが、一方で、いつも気になるのは、来てくれなかった誰かのことだ。特に来てくれると思っていた人が、来てくれなかった時ほど寂しいことはない。
自分の都合で写真展を開いて、一方的に案内ハガキを送っておいて、来なかったからといって、もちろんその方になんの罪もない。そのことは重々わかっているつもりだ。それでも、気になるのだ。
ちなみに、意地悪なようだけど、どの写真展に誰が来てくれなかったのか。私は自分でも驚くほど、そのことを憶えている。それはきっと、私だけではないだろう。多くの者は口にしないけど、写真展を開いたことのある者だったら、同じ思いがあるはずだ。
だから、逆に、親しい人が写真展を開いたときは可能な限り足を運ぶようにしている。それでも行けなかったときが何度もある。だから、その人に会うたびに、どれほど時間がたっていようとも申し訳ない気持ちになる。