![(イラスト/阿部結)](https://aeradot.ismcdn.jp/mwimgs/0/6/840mw/img_06b26b3230e38c8deb0ddcc0cf31ddee129447.jpg)
SNSで「売文で糊口をしのぐ大センセイ」と呼ばれるノンフィクション作家・山田清機さんの『週刊朝日』連載、『大センセイの大魂嘆(だいこんたん)!』。今回のテーマは息子の“昭和君”に伝えたい一言。「パパと呼ばないで!」。
* * *
年をとってから幼い子供を育てるのは、しみじみ大変なことである。
三年前には、昭和君にボール遊びを教えてやろうと思って多摩川の河原に連れていき、ゴムのボールを思い切り蹴り上げたとたん、ギックリ腰になってしまった。
その場から動けなくなってしまい、激痛に脂汗をかきながら自転車を漕いで家まで帰った。
二年前、由比ガ浜海岸へ連れていったときには、海に流れ込む小さな川をぴょんと飛び越して対岸に着地した瞬間、右のふくらはぎがバチンと音を立てて肉離れを起こした。
右脚にまったく力が入らなくなってしまったので、妻太郎に海岸までタクシーを呼んでもらって、やっとの思いで砂浜を離脱したが、まことにぶざまなことであった。
だが、こうした身体的な不都合の発生は、やっかいと言えばやっかいだが単純と言えば単純なものだ。ややこしいのは、心理的な葛藤を引き起こす事態である。
たとえば、ある朝、昭和君を保育園に送っていったときのこと。隣のクラスの女の子が大センセイの元へ駆け寄ってきて、こう質問するのである。
「あのー、誰のおじいちゃんパパですか?」
おそらくこうした表現の背後では、ふたつの考えがぶつかり合って葛藤を起こしているに違いない。
「この人、パパにしては年をとってるけど、おじいちゃんにしてはちょっと若い気がする。誰の家族か聞くには、いったいなんて呼んだらいいんだろう?」
たとえ幼い子供の発言であっても、おじいちゃんかもしれないと疑われると、やっぱりちょっと傷つく。だからといって、「おじいちゃんじゃなくてパパだよ」と訂正するのも、なんとなく嫌なのだ。
いや、彼女の言葉を否定するようで悪い、というわけではないのだ。「おじいちゃんじゃなくてパパだよ」という言葉は、暗黙のうちに「たしかにおじいちゃんのように見えるだろうけど」という自己認識を前提にしている。それが嫌なのである。やっぱりそれを、認めたくないんである。