
フリーランスのライター、編集者のオバタカズユキさんが「最後の読書」をテーマに書いた。
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三十年以上前、新卒入社した出版社を二カ月足らずで辞める時だった。社長室で「ライターになって、死をテーマに書くつもりだ」との意思を告げた。
「死? んなもんで食えるわけないだろ!」
顔をしかめた社長のほうが正しいと感じたことを、良く覚えている。
小学五、六年の頃から、死の恐怖に襲われるようになった。臨終時の痛さ、苦しさなどが怖いのではなく、この意識の完全消失、それも絶対確実にやってくる宿命の絶望だ。考え始めると、呼吸が乱れ、パニックのようになる。
大人になっても恐怖は消えず、ライター志願を社長に宣言して以来、「死」にまつわる資料を集め始めた。今では大き目の本棚二台は関連書物で埋まっている。
もう中年期も終盤だ。その時が刻々と近づいてきているのに、まだ収集してきた資料のほとんどに目も通していない。パニックは起きにくくなったが、まだあの恐怖に対峙することを避けているのだ、きっと。
過去、大病を二度患っている。だが、身体のどこかがひどく痛かったり、苦しかったりして、手術前でも恐怖に脅えている暇がなかった。実際はそんなふうに息絶えていくものなのかもしれない。
ただ、あの恐怖の正体を知り、克服法を会得せずして、この世から消えたくはない。特に闘病中でもない時は、そう思っている。
死期を知る前に、最低限、本棚二台ぶんは読破したい。たった今は、刊行されたばかりの佐伯啓思『死と生』という新書を読んでいる。気が重いのだが、書評の仕事にして、無理やり読了を自分に課した。そろそろその時に備えて、とりかからねばならないのだ。
しかし、多くの死は、身体の劣化をともなって近づいてくる。すでに老眼で読書量は減りつつある。文字を自由に拡大できるように、早いところ、集めた資料を電子化しておいたほうがいい気もする。
いや、どんなにリーダー端末が発達しても、文字を追う気力が失せている可能性も大だ。ならば、蔵書の音声化にとりかかるべきか。テキストの音声読み上げソフトを使うのだ。病院のベッドで眠れぬ夜、貪るようにそれを聴く。
とか、滑稽だね。自分は何に執着しているのだろう。なんのために生きるのだろう、と思う。
※週刊朝日 2018年9月21日号