だからだろう。内側では買春擁護論がフツーに起きている。ワイドショーでは加藤浩次が「相手も仕事でやっていること」「違法じゃない」と語り、週刊新潮は「そんなに悪いか『ジャカルタ買春』!」と切れた。自分が責められている気分にでもなったのか。また社会学者の古市憲寿は「選手が聖人君子である必要はない」「さらし者にしなくても」と謝罪会見そのものを否定した。買春なんて自由だし、別に謝らなくてもいいし、みたいなノリか。世間の声も、「買春」そのものへの批判というよりは、「JAPANの名前を背負っての買春」という「自覚のなさ」が問われている。一方で海外発信の記事を読むと、4年前のアジア大会では日本の競泳選手がカメラ盗んでましたよね~、という内容のものがいくつかあり、買春を倫理の問題として捉えていることがわかる。
ちなみに「買春」とは、フェミニストの女性たちがつくった言葉だ。日本人サラリーマンがこぞって海外にセックスツアーに行っていた昭和時代、性売買を「売春」という言葉でしか表せない理不尽から「買春」という言葉が生まれた。売る女性だけに責任が問われ、男はあくまでも受動的に客になっているような誤ったイメージを言語化する新しい言葉だった。それが今こうやって、男の主体・責任を問う言葉として機能するようになったのは感慨深い。だけれど未だに、韓国、中国、東南アジアを中心に日本人男性は徒党を組んで買春する文化を手放していないことも、今回明らかになった日本の現実だ。
この国の性の現実を突きつけられる“事件”だった。「買春」、いったい何が問われているのだろう、問われるべきなのだろう。
※週刊朝日 2018年9月14日号