だが、そのあとの監督となったザッケローニは、守備の文化を持つ国イタリアの人間だったにもかかわらず、カテナチオとは正反対のサッカーを身上とする人物だった。これまたワールドカップで結果を残すことはできなかったが、次に招聘されたメキシコ人のアギーレも、徹底的にボールをつなぎ、自分たちで主導権を握ることを目指す監督だった。
ハリルホジッチは、この流れを否定した。完全に。
サッカーを始めたばかりの子供にとって、最大の喜びは自分がボールを持つことである。ポゼッションにこだわるサッカーは、だから、童心そのままのサッカーだとも言える。わたしはこういうサッカーが好きだが、けれども、反対意見を持つ人からすれば単なる幼稚でおめでたいだけ、ということになるかもしれない。
だから、ポゼッションを否定したハリルホジッチを否定する気は、わたしにはない。ただ、童心にしろ幼稚にしろ、あるいは成長にしろ劣化にしろ、まるで異なる哲学を持つ監督を交互に起用するのは、いい加減やめにしてほしいのだ。
イタリアにはあって日本にはないもの。それは「自分たちのサッカー」としてイメージできるスタイルである。日本人だから、ではない。日本の柔道には一本へのこだわりがあり、野球には緻密さ、自己犠牲などの共通認識がある。サッカーにないのは、単に日本のサッカーが同じことを続けてこなかったからである。
俺は、わたしは、どんなサッカーが好きなのか。
そんな自問が深まり、多数派が構成されていかない限り、日本サッカーの迷走は今後も続く。ワールドカップの結果とは関係なく。
※週刊朝日 2018年6月29日号