父親の喪失は癒やされることのない心理的な深手となり、ニルソンが書き、歌う曲の多くに影を落としてきたという。父の生存や別の家庭を持っていた事実を知って書かれた「1941」はその最たるものだ。
ニルソンが徴兵から逃れるために結婚したと語る最初の妻サンディ・リー・マクダガートとの離婚を背景に書かれた「ウィザウト・ハー」など、ニルソンには自伝的な曲が多い。
陽気でホラ話を好んだ母ベットは音楽が好きで、ニルソンにも影響を及ぼした。だが、酒を切らさず、常に借金を背負い、一家の生活は思わしくなかった。母と別居して一時的に親戚の元に身を寄せていた16歳のとき、その親戚から同居を断られ、ヒッチハイクして大陸を横断して母の元へ帰ったエピソードなどは初めて知る話だ。
劇場の案内人から副支配人へ。その後、銀行に勤める。働きながら歌手、ソングライターとして売り込み、デビューに至った話はよく知られているが、その経緯、その後のアルバム制作の背景や録音時の詳細な記述には大いに興味をそそられる。
たとえば、シングル「ウィザウト・ユー」が大ヒットし、アルバム『ニルソン・シュミルソン』が600万枚超のベスト・セラーとなった後、ニルソンは破滅の道に陥っている。1日1本のブランデーとドラッグが欠かせなくなり、2度目の妻のダイアンは息子のザックを連れてニルソンのもとを去り、離婚した。
ニルソンはダイアンに去られた苦悩をもとに「傷ついた心」を書いた。妻への思いもさることながら、かつて自身が味わった父親の喪失感を息子のザックに与えてしまったことへの自責の念も大きかった。
その後、ゴードン・ジェンキンズが指揮するフル・オーケストラをバックに、スタンダード・ナンバーを歌った『夜のシュミルソン』を発表し、ファンの意表をついた。
それ以上にファンを驚かせたのはジョン・レノンとの放蕩“ロスト・ウィークエンド”を背景に、ジョンのプロデュースで制作された『プシー・キャッツ』だ。喧騒に満ちたサウンドをバックにしたニルソンの歌声は、酒とたばこ、ドラッグで疲弊したガラガラ声になっていたからだ。ニルソンの放蕩ぶりはジョンとのそれだけに限らなかった。2度ばかり留置場で一夜を過ごしたことなども明かされている。