西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。帯津氏が、貝原益軒の『養生訓』を元に自身の“養生訓”を明かす。
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【貝原益軒養生訓】(巻第一の40)
俗人は、慾をほしゐままにして、礼儀にそむき(中略)仙術の士は養気に偏にして、道理を好まず。(中略)陋儒(ろうじゅ)は理に偏にして気を養はず。(中略)此三つは、ともに君子の行ふ道にあらず。
益軒は中庸を重んじました。「養生の道は、中を守るべし。中を守るとは過不足のないことをいう」(巻第二の42)と説いています。食事にしても、空腹は避けるが食べすぎはだめ。物事はすべからくそういうものだというのです。
また俗人、仙術の士、陋儒という三者を取り上げ、いずれも偏っていてだめだと言い切ります(巻第一の40)。
俗人とは、広辞苑によれば、【1】世間一般の人。僧でない世俗の人【2】風流を解しない人。名利にこだわり学問や芸術に関心のない人【3】仏の道や聖人の道をさとらない人、ということです。益軒がどのあたりを指して俗人といっていたかはわかりませんが、俗人は欲をほしいままにして、礼儀にそむき、気を養おうとしないので、天寿をまっとうできないというのです。
仙術の士とは、仙人のことで「人間界を離れて山中に住み、穀食を避けて、不老・不死の法を修め、神変自在の法術を有する」(広辞苑)といいます。この仙人は、気を養うことに専念して道理を好まない。だから、礼儀をないがしろにしてはばからないと益軒は批判します。
つまり、欲に走る俗人はいうまでもなく、気を重んじすぎる仙人も、道理ばかりをいう学者も、偏りすぎていて正しい養生の道を歩んでいないというのです。
気という考え方と、道理を対極において、そのいずれに偏ってもいけないという益軒の見識はさすがです。
外科医だった私が西洋医学の限界を感じてからすでに35年以上がたちました。西洋医学はまさに理の世界です。身体をばらばらに解剖して得た知識を元に、病とは何かを論理的に解明しようとします。しかし、いくら身体を部分でとらえても、人の生命(いのち)はそれを超えています。
一方、東洋医学は身体を分解することはせずに、全体でとらえようとします。その時に語られる気の世界は論理では説明ができません。しかし、直観的に気の存在は理解されるものなのです。こうした東洋医学のあり方が西洋医学の限界を超えることにつながるのではないかと考えて、これまでやってきました。
西洋医学の側は東洋医学にはエビデンス(科学的根拠)がないと批判します。一方で東洋医学の側は、西洋医学は部分ばかりを見て全体を見ないとやはり批判します。しかし、益軒が説くように、どちらに偏ってもだめだというのが、私の考えです。
私が提唱するホリスティック医学は、両者を足し算するのではなく積分する、まさにインテグレートすることによって生まれるのだと思っています。
※週刊朝日 2017年9月29日号