半世紀前に一世を風靡した「ローラーゲーム」の東京ボンバーズ。一瞬の輝きを見せて消えていったスターたちの中に小泉博さんがいた。彼の人生は、その後もずっと人を明るくするものだった。短期集中連載「日本を明るくした男」では、ノンフィクションライターの渡辺勘郎さんが彼の人生を追った。
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日本初のローラーゲームチームとして誕生した東京ボンバーズは一大ブームを巻き起こした。巡業に出れば会場は超満員。「日米対抗ローラーゲーム」(東京12チャンネル、現テレビ東京)の視聴率は、超人気番組の「8時だョ!全員集合」「スター千一夜」に次ぐ第3位の週もあったという。
ローラーゲームは、1チーム5人の選手がローラースケートを履いて傾斜のついたバンクと呼ばれる周回コースを競って回り、得点争いする競技。激しいコンタクトがあるので“走るプロレス”とも呼ばれる。この記事の主役の小泉博がローラーゲームを知ったのは1966年。東京12チャンネルで放送されたロサンゼルス・サンダーバード対テキサス・アウトローズ戦を観て、だった。
「僕が4年生のときで、『すっげー』と思いました。学校でも話題になってまねしましたよ。鉄車のついたサンダルを買ってもらって、『ローラーゲームごっこやろうよ』です。多摩川の土手にあった広場の花壇の周りで、ヨーイ・ドン。当時は環状8号線が工事中で、そこが貴重な、アスファルトで舗装されていて車の来ない遊び場で、僕らのスケートリンクでした」
東京ボンバーズ誕生のキーマン、タイガー森こと森文雄に当時を振り返ってもらった。森は68年4月放送のサンダーバード戦で女性同士が髪の毛を引っ張り合って乱闘するシーンを観て釘付けになったという。その秋の放送で「日本チーム結成決定・選手募集」というテロップが流れ、69年1月に後楽園のリンクで行われた選考会には700名の応募者から書類選考された約250名が参加した。合格者は男女合わせ15名。その中に森と佐々木ヨーコ(陽子)、ミッキー角田(角田誠)、河野一男がいた。