「ただ、その後、動きがなくて……視聴率低下のテコ入れで先にヨーコとミッキーの2人だけ渡米してデビューしましたが、僕らは日本で興行があるときにちょっと呼ばれただけ。さらに視聴率が低下して70年9月に放送打ち切りとなり、日本チーム結成の話は頓挫したんです。諦めきれなくてねぇ。仲間を集めましたが、女性に声を掛けても怖がられ、男だけの約20人のグループで練習してました。『ローラーゲームの運営元であるナショナルスケーティングダービー社のグリフィス社長が来日する』と耳にしたので会いに行き、『やりたくて、やりたくて、スケーターを集めてます』と直訴すると、『だったら見てみよう』。翌日、営業前の後楽園のリンクを借り切って見てもらうと『アイム・サプライズ!! すぐ日本人チームを作ろう』と言ってくれて」(森)

 それが70年11月。諦めなかった森の行動力でチャンスがつながり、翌71年1月、森と河野はヨーコとミッキーと共に渡米し、ロサンゼルスで6カ月間訓練を受けてサンダーバードの一員としてプレー。さらにハワイで3カ月、ウォリアーズでプレーしてから帰国した。この時点で日本人の女性選手はヨーコ一人。チームを作るには足りない。

「サンダーバードの日本のファンクラブ会員なら、と思いついた。西麻布にあったナショナルスケーティングダービー社の名前で、アメリカに連れていきますよ、という選手募集のDMを送ったんです。堀井由美子や綾部圭子などが応募してくれて、その後、由美子と圭子ら3人がヨーコたちと一緒に渡米しました」(森)

 72年の夏、ハワイに日本人スケーターが集合し、ニューヨーク・ボンバーズとチーム名を賭けて対戦することになる。

「最初、僕らのチーム名は『タイガース』だと。それが、プロ野球にある、ってことから、オーナーの一言で『ボンバーズ』に決まってました。で、その試合に勝って晴れて、東京ボンバーズ結成、となった訳です」(森)

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