■競争激化の中 転んで選ばれ!?
同年10月、東京・板橋にチームの練習場を兼ねたトレーニングスクール(略称トレスク)が設けられ、テレビ放送で「練習生募集」というテロップが流されると……。
当時、高校3年生だった「ロニーT」は、すぐ電話した。顔にペインティングをしてサングラスのゴーグルを掛けた覆面スケーターとなる彼は今も素顔は秘密だが、このときから小泉と半世紀に及ぶ付き合いになる。中学3年生で15歳だった小泉は「親にどう話そう……」と、すぐには申し込みに行けず、結果として2人の会員番号は35番と143番。もっとも、その後、練習生は約2千人まで増えていく。
小泉が最初に受けたレッスンのコーチ役はヨーコ。彼女に小泉の第一印象を尋ねると「細くて、小さくて、ジャニーズ系の可愛い子。私と同じで、最初はあまり滑れなかったですね」。もう一人の先輩女性スケーター、堀井の印象も「インパクトのあるスター性のある顔で、目立ってました」。
練習生は技術レベルでクラス分けされた。一番上のクラスは「アドバンス」と呼ばれ、実質的にボンバーズの2軍。男女計約50人いて、そこに小泉は入会から1カ月ほどで昇格したが、「中では僕が一番、下手でした」。
ちょうどその頃、翌73年4月に東京ボンバーズとして初の日本興行が行われることが決まる。相手はニューヨーク・チーフス。誰がボンバーズに昇格して試合に出場できるか……アドバンス内の競争が激化する中、興行直前の3月、オーナーのグリフィスが来日する。
「練習で滑ってたとき、オーナーの前で転んでしまって……ミッキーさんに練習後、『あとで事務所に来るように』と言われたんです。そこでオーナーから『アメリカでローラーゲーム、やりたいですか』『もう少しうまくなったらアメリカに連れていくことができます』と言われました」(小泉)
その日オーナーに呼ばれたのは彼だけだった。
「アイドルだな、と思いました。スケートの技術だけではないところで選ばれているとしか思えないですからね。もっとも、彼はそこから瞬く間にうまくなっていくんですが……」(ロニーT)