相澤氏の棺の前で手を合わせる淳子 (c)朝日新聞社
相澤氏の棺の前で手を合わせる淳子 (c)朝日新聞社
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 故・相澤秀禎氏が創業し、数々のスターを生み出した芸能プロの老舗「サンミュージックプロダクション」。来年、創業50周年を迎えるが、相澤氏と二人三脚で奮闘してきた元専務、福田時雄名誉顧問(86)が回顧する。

 サンミュージックに女性アイドル第1号として生まれたのは「花の中3トリオ」として山口百恵、森昌子と注目された桜田淳子だった。

 桜田淳子が活躍した70年代は、聖子以前のアイドルブームの先駆け的時代でもある。ピンク・レディーや中森明菜小泉今日子なども輩出した日本テレビの伝説的なオーディション番組「スター誕生!」の決戦大会で、桜田淳子は彗星の如く登場した。1972年9月6日(放映9月17日)のことだ。

「スタ誕は萩本欽一さんの司会で、挑戦者が歌唱した後に事務所やレコード会社がプラカードを掲げてスカウトする形式でした。淳子のときには25社がプラカードを一斉に挙げたんです。その数は番組史上最多で、その後も記録は破られませんでした。ちなみに、森昌子には13社、山口百恵には20社がプラカードを挙げました」

 この決戦大会のはるか前から、福田氏は桜田淳子に注目していた。

 淳子の地元のスタ誕秋田予選を家で見ていて、画面に白い帽子(後にエンジェル・ハットとしてトレードマークになる)を被った淳子の姿が映ったとたん、福田氏は「この子だ」と跳び上がった。

 タレントに必要なすべてを持っていたと振り返る。

「淳子は可愛く明るくパワーがあった。帽子を被って自分を目立たせる演出も心得ていて。スタ誕のプロデューサーだった金谷勲夫さんは淳子を“天使”と言い、阿久悠さんは“可愛いだけで天才だ”と評したんですが、確かにその存在感は、天使であり天才的でした」

 淳子がどこの事務所を選ぶか。その交渉現場もまた、伝説的だという。

「決戦大会後、後楽園ホールの下の中華料理店で、淳子本人と親御さんと日本テレビ関係者が座る前で交渉したのですが、なにせ25社とスカウトマンが多いので揉めてね。結局、あいうえお順で3分間のみ、契約金の話はしないというルールを決め、自社アピールをすることになりました。みんな淳子が欲しくて、おい時間だぞ、なんて怒号が飛んで、ぴりぴりしていました」

 たった3分で何を話すか。9番目にいた福田氏は口説き文句に迷い、とっさに持ち合わせていた森田健作のドラマの台本を見せた。

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