「もしうちにきていただけたら、森田健作の妹役などもあるかもしれないと話すと、淳子の顔がぱっと輝き、森田さんのファンですと言ったんです。“縁”はつながっていくものなんですね」
淳子は決戦大会から2カ月もしないうちに芸能界に入るために単身で上京した。福田氏は、秋田駅まで送りに来た淳子の父親から「二つの条件」を出されたという。それは、「高校を絶対に卒業させること」と「20歳まで間違いがないようにすること」だった。
「事務所としても、中学生の女の子を預かるのは初めて。相澤宅で家族同様に暮らし、マネジャーとは別にスーパーマーケットでガードウーマンをしていた女性を付き人にしました。どこへ行くのも一緒、地方ロケでもシングルでなくツインの部屋をとって、付き人と宿泊するようにしました」
淳子のデビューから3カ月後に山口百恵がスタ誕で合格してホリプロに所属した。ホリプロは「本当は淳子を欲していた」と福田氏が明かす。“森昌子、石川さゆり、桜田淳子”でホリプロ3人娘として売り出す目論見があったというのだ。
「結局そうはなりませんでしたが、淳子がうちを選ばなければ、逆にうちが百恵をスカウトした可能性はある。でも淳子も百恵も両方、とは思わなかった。先に入った淳子に対し、後から同い年で賞レースを張り合う相手を入れたら可哀想だからです」
芸能界に入った百恵は淳子と同じ中学に転入してきて、歌手仲間にして“学友”になった。二人は、ジュンペイ、モモタローと呼び合い、プライベートでもとても仲がよかったという。友情をめぐるこんなエピソードもある。
「昔、意地悪な雑誌記者がいて、『ライバル同士で仲がいいはずがない』と淳子に詰め寄ると、淳子は泣きながら必死に『本当に仲良しなんです』と訴え、記者が淳子のファンになってしまった。今は淳子も百恵も芸能活動をしていませんが、50代半ばを過ぎた今も仲よくしているようです。人生いろいろなことがあっても、絆は永遠なんですね」
福田氏は時には家族以上に桜田淳子を大事にしたため、自分の娘とすれちがうこともあったそうだ。