実は塩が原因で…?(※イメージ)
実は塩が原因で…?(※イメージ)
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 武将・上杉謙信の武田信玄に塩を送ったエピソードは、現代でもことわざとして残り、誰もが知るところ。しかし、その謙信が塩のせいで死んだ可能性がある。現役の医師であり、絶賛発売中の書籍『戦国武将を診る』の著者・早川智氏が、偉人の病をずばり診断。

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 戦国時代宿命のライバルというと、武田信玄と上杉謙信だろう。戦略、統治、文化いずれの面でも拮抗するこの両者はほぼ同年代、名門の出であり、神仏の教えに強く帰依していたことなど多くの共通点がある。

 上杉謙信は享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代長尾為景の末子として春日山城に生まれた。幼名・虎千代。天文5年(1536年)、虎千代は林泉寺に預けられ、禅僧天室光育の教えを受ける。天文17年(1548年)、19歳で家督を相続し、越後国守護代に。天文22年(1553年)には甲斐の武田晴信(のちの信玄)によって領地を追われた北信濃の村上義清・高梨政頼らに請われて初めて信玄と対戦する。ここから「川中島の戦い」が12年間計5回にわたって繰り広げられるが、結局決着はつかなかった。

 その間永禄3年(1560年)には、尾張の新興勢力織田信長が駿河・遠江・三河の太守今川義元を桶狭間に討ち取り台頭してくる。今川の勢力が衰退したのを見た信玄は駿河に侵攻。合戦では信玄に敵うべくもなかった今川氏真は、縁戚関係にあった関八州の北条氏康と謀って、内陸の武田領への「塩」の流通を禁じた。一種の経済制裁である。しかし、謙信は「自分は信玄以下、武田の武将と戦っているのであって民を苦しめるべきではない」と信玄に日本海の塩を送ったという。

 塩の主成分塩化ナトリウムは、我々の生命維持に必須の物質である。イヌイット(エスキモー)の伝統食では生肉から必要なナトリウムを摂取するが、穀類と野菜などカリウムの多い食材が主体の東洋では、塩で調理した食べ物が大変おいしく感じられる。

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