作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。東日本大震災を機に変わった日本の食について考察する。

*  *  *

 私の住む街には、半径数キロ圏内に大きなスーパーがいくつも点在している。数日おきに違うスーパーを巡っていると、今の日本が見えてくる。

 一番人気の高級スーパーTは、震災以降、東北の食材が増えた。安倍さんが福島の桃を食べたニュースが流れると、福島の桃が高々と積み上げられるなど、食べて応援!という熱い意思が、伝わってくる。

 Tに比べると、どことなく地味な地元のスーパーSは、九州地方や外国の食材が増えた。東京のスーパーだというのに、関東・東北の食材が3割に満たない異常事態を見ると、ここにも何かの意思を感じる。

 オーガニック食材が売りのスーパーKは、以前と全く変わらない農家から、粛々と仕入れを続けているようだ。淡々と、まるで何もなかったかのように。

 スーパーを巡ると、今の日本が沈黙の中で葛藤しているのが、見える。子どもを連れた女性が、真剣に産地を確認している姿に出会う。震災前に見たこともなかった地域の牛乳から先に売れていく。もちろん東北の食材をすすんで買う人たちもいる。でも誰も声には出さない。ただ私たちは見えない線で対立させられるような気持ちで、何が正しいことか分からず、沈黙し、選択し、買い、食べている。

 誤解ないように言いたいが、東北の食材“だから”問題があるとは考えていない。原発事故から4年だ。放射能汚染は、福島だけの問題ではない。さらに生産者の方々の地獄の苦しみを思うと、言葉を失うしかない。先日、飯舘村で畜産業を営んでいた男性の話を聞く機会があった。彼は震災後、北海道で牧場を再開したが、200軒近くあった飯舘村の畜産農家で、再開できているのはたった6軒だと話してくれた。多くの人が、未来のみえない闇の中にいる。その暗闇は、決して消費者と無関係ではない。それなのに、今の日本で食べ物について語るのは、非常に政治的でセンシティブだ。もしかしたら、安保法よりもセンシティブだ。命に直結する重要な問題なのに、私たちは語れない。

 
 先日、札幌でユニークなイベントが行われた。「料理人の休日レストラン」と名付けられ、札幌の名高いシェフたちが一堂に会し、北海道の食材を使った料理を振る舞った。前述した飯舘村の男性の育てた牛も調理された。イベントの最中、彼がこう挨拶した。

「私が育てた牛を、こんな晴れやかな場で、食べてくださり、本当に幸せです」

 私はローストビーフを食べていた。涙がぶわっと噴き出た。生産者と消費者の幸福な関係が、どれだけ優しく、そして貴重なのか。

 食べながら、考える。私たちが失ったものを。それが、取り戻せるものなのかは、分からない。でも、生産者と消費者が共に考え、語ることからはじめられるものがあるのだ。原発のこと、未来のこと、生きること、全て一つ一つ。言葉にすることから、未来を変えていくしかない。

 これ以上沈黙することなく、怖がらず語りあう。それが今、必要なことだ。

週刊朝日 2015年10月30日号