古角氏は嶋と同期、甲子園では1番、センターとして活躍している。早稲田大学野球部の初代監督で、学生野球の父と言われた飛田穂洲に「日本一優秀な外野手」と言わしめた選手でもある。
長谷川監督の指導は、いわばスパルタ式だった。体が動きを覚え込むまでノックを繰り出し、バットを振らせる。毎日ボールが見えなくなるまで練習は続いた。
古角氏の実家は和歌山・那智勝浦の旅館である。はじめは家から近い新宮中学で野球をしていたが、「なんとしても甲子園に行きたい」と海草中に編入した。そのとき、「自分で志願したのだから、どんなに練習が辛くとも帰ってくるな」と、古角氏を送り出した父親が、休みに帰省した息子の憔悴ぶりに、「頼むから野球を辞めてくれ」と懇願したほどの厳しさだった。
「僕も小、中学校で野球をやっとりましたんで、向陽高校でも野球部に入ろうと思ったんですが、その時代でも練習が過酷で、諦めました。はじめは40人からいた新入部員も、3年時には10人前後に減ってたんと違うかな」(松本氏)
ここで鍛錬を積んだ嶋がエースとしてはじめて甲子園のマウンドに立ったのは、3年生の夏、昭和12(1937)年の第23回大会だった。地方大会を2桁得点で勝ち進み、乗り込んだ甲子園でも初戦の徳島商に1対0、3回戦の北海中には12点もの差をつけて大勝している。準決勝で中京商に1対3で惜しくも敗れたが、投手として嶋はこれを機に俄然注目され、地元の期待を一手に背負うこととなる。
余談ながら、この23回大会決勝戦で中京商と対戦した熊本工のエースが、のちに巨人で活躍する、鉄人・川上哲治である。結果は3対1で中京商が優勝。
ベスト4に入った海草中ナインは、「来年は優勝だ!」と士気も高く、和歌山に帰ったのである。
嶋の投球シーンが、短い映像で残っている。サウスポーでややサイドスロー気味のフォーム。ストレートがともかく速かったと言われるが、決め球は「懸河のドロップ」と名付けられた変化球。ドロップとは俗に言う「縦カーブ」(人によってはフォークに近いとも)、今ではほとんど投げる選手がいない幻の球種である。
1年間みっしり練習を積み、制球にも磨きを掛けた嶋は、翌13(38)年の地方大会を難なく勝ち進み、優勝候補の筆頭として、甲子園のマウンドに登ったのだ。