香川・高松の屋島山で。石川は地方での活動を大切にし、知り合った人々と長くつきあう。高松市でも「フォトアーキペラゴ(写真多島海)写真学校」で講師を務める。空いた時間にはカメラを担いで撮影に出かける(写真=東川哲也)
香川・高松の屋島山で。石川は地方での活動を大切にし、知り合った人々と長くつきあう。高松市でも「フォトアーキペラゴ(写真多島海)写真学校」で講師を務める。空いた時間にはカメラを担いで撮影に出かける(写真=東川哲也)

 野田の言葉に従って石川は受験勉強に取り組み、翌年早稲田大学に進学する。

「野田さんがおっしゃった通り、学生は自由だし怪しまれることもない。いい身分でした」

 入学すると早速、冒険の日々が始まった。1997年夏には野田がかつてカヌーで下ったユーコン川を下り、98年には北米大陸の、99年には欧州大陸とアフリカ大陸の最高峰へ登頂。2000年には世界の若者8人で北磁極から南極点までを徒歩や自転車で踏破するプロジェクト「Pole to Pole」のメンバーに選ばれ、9カ月をかけて南極点に到達した。この時の記録『この地球(ほし)を受け継ぐ者へ 人力地球縦断プロジェクト「P2P」の全記録』(01年刊)は冒険譚(だん)であると同時に瑞々(みずみず)しい青春の記録としても読まれ、のちに文庫化された。

 石川の冒険は続く。費用はアルバイトのほか、撮影した写真や紀行文を雑誌に掲載してもらうなどして稼いだ。01年1月から3月にかけて南極大陸・南米大陸・豪州大陸最高峰の登頂を果たす。5月にはとうとうチベット側からエベレストに登頂し、当時の世界七大陸最高峰登頂最年少記録を作っている。エベレスト遠征の資金は知り合いや親に借金し、『この地球を受け継ぐ者へ』の印税で返した。02年9月に大学を卒業。卒論は書かず、代わりに旅の間もたくさんの本を読んだ。旅をすれば知りたいことが増え、さらに読書の幅は広がり、刺激を受けてまた新しい旅へと向かう。人類学や民俗学への関心も深まっていった。

「僕は自分の身体を通じて世界を知りたい。何かを調べて世界を知った気になるんじゃなく身体を通じて咀嚼(そしゃく)したかった。それは今も変わりません」

 もともと石川はどこへ行っても人間の暮らしぶりを見るのが好きで、その土地にある独自の文化や伝統の中に生き、先進国の都会生活では持ち得ない知恵を持っている人々を深く尊敬してきた。98年にサイパン島で弟子入りしたマウ・ピアイルグもその一人である。ある時石川はミクロネシア連邦ヤップ島で出会った老人から、「自分の祖先は星を頼りにカヌーを使ってこの島にたどり着いた」と聞かされた。星の航海術に興味が湧いて調べるうちに、現代でも「スター・ナビゲーション」の技術を使い、帆を張った小さなカヌーで島から島へと旅するマウの存在を知った。

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