伊達家18代目当主、伊達泰宗(やすむね)氏。先祖でありながら、歴史上の人物としてしか知らなかった藩祖、政宗公に“出会った”ときの感動を語ってもらった。

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 東京で生まれ育った私ですが、今は仙台に住んでおります。きっかけは、政宗公との対面でした。

 終戦間際の1945年7月、仙台大空襲で仙台の城下町7割とともに、政宗公の御霊屋(おたまや)である瑞鳳殿(ずいほうでん)も焼けてしまいました。ちょうど40年前、瑞鳳殿を再建する話が持ち上がり、地下の状況を確認する必要が出てまいりました。政宗公のお墓を発掘調査することになったのです。

 まだ父は健在でしたけれども、15歳の私も遺族として立ち会わせていただきました。地下の石室が開かれると、中に石灰の小山がありました。元々は、木でできた風呂桶のような柩(ひつぎ)があり、それをかごに載せた状態で埋葬されていたようです。330年以上の時間がたち、木や布でできた部分が腐食し、防腐剤として柩に詰めてあった石灰だけが残ったのです。

 石灰の小山のほぼ中心に遺骨の一部が見えました。それを調査員が掲げるように持ち上げた。頭蓋骨でした。歴史上のお話として伺っていた政宗公が目の前に現れた瞬間です。そのときの感動は、言葉では言い表せません。ごく自然に、私は心の中でお誓い申し上げておりました。

「成人したならば、必ず仙台に戻って参ります。近くで政宗公をお守りさせていただきます」

 願いがかないまして、今、仙台の瑞鳳殿や伊達家伯(かはく)記念會(かい)で伊達家の仕事ができています。子孫として本当にありがたいことです。

 政宗公の時代から約250年後、明治維新で伊達家は危機を迎えます。戊辰戦争で敗れ、62万石から半分以下の28万石に減らされたのです。約2万人もいた家臣の方々は大変だったでしょう。領地を失ったということは、生活の糧を失ったということです。流浪するか農民になるしか選択肢はありませんでした。

 ちょうどそのころ、明治政府から北海道開拓の打診がありました。それに対し、伊達の分家、仙台藩士たちは、士族でいられるなら、という条件を出します。彼らはとても誇り高かった。農民ではなく伊達家の元藩士という身分である、というだけのことで、彼らは次々と海を渡ってゆきました。

 未開の北海道は、木の根一つ掘り出すのに1年かかるような大変な場所だったそうです。道具が足りないので、日夜交代での作業。冬は地面が凍ってしまう。雪が吹き込む小屋に住みながら開墾を進めました。

 食器も満足に揃いません。分家のお姫様が、貝殻をお皿代わりに食事していたとき、唇を切ってしまった。お仕えしていた者たちは、「なんとおいたわしいことか」と涙を流したそうです。

 94歳で亡くなりました大伯母から、こんな話を聞いたことがあります。子どものときに、冬の朝、思わず「寒い」と口に出したら、父親(15代邦宗)から厳しく叱られたというのです。

「東京の屋敷にいながら、寒いとはなんたることか!北海道で苦労をしている家臣たちのことを思えば、そんなことは言えないはずだ!」

 私も父から、「疲れた」「つらい」といった泣き言を口に出してはいけない、と育てられました。明治以降の伊達家の家訓と言えるかもしれません。

週刊朝日  2014年4月4日号