与党が半数を超える76議席を獲得。参院選で圧勝して、ようやくねじれが解消した。安倍晋三首相(58)の第一声は「たくさんの国民の皆さまに『政治を前に進めていけ』との大きな声をいただきました」だった。
7月21日夜、東京・永田町の自民党本部。テレビ局の中継インタビューに答える安倍首相には、過去に主役を務めた国政選挙とは“異なる次元”の余裕があった。
政権奪還を果たした昨年12月の衆院選は、笑みはなく、終始緊張感を漂わせた。年金や閣僚の失言で逆風が吹き荒れた6年前の参院選では、37議席にとどまった責任を報道陣に問われると、「新しい国づくりはスタートしたばかりだ」と必死に繰り返した。このときの選挙では、午後9時ごろになると党幹部が遊説先から沈痛な面持ちで本部に集まり、頻繁に見通しのない選対会議を開いた。
今回の参院選で、選対会議が開かれたのはわずかに1度。選挙を取り仕切る執行部の一人は、「こんなのは戦(いくさ)じゃない。票の奪い合いにすらなっていない」と話し、またある候補者は「関心は自民党の他の候補者と比較して、得票率でどれだけ上回れるかだった」と振り返った。
自民党の勝利が早くから見えていたこともあり、党本部が各都道府県連に対し、選挙公約集の追加希望があれば申し出てほしいと声掛けしても、返答はなし。地元に届いた公約集も、選挙事務所にうずたかく積まれたまま。政治熱の低さを示すように、選挙区の投票率は戦後3番目に低い52.61%だった。
自民党の選挙戦を危機管理の面から裏支えするコミュニケーション戦略チーム(コミ戦)も、今回は開店休業。加藤勝信官房副長官(57)や、候補者でもある世耕弘成官房副長官(50)も時折参加して各種分析を行ったが、主な仕事は二つだけ。
民放が各党の政調幹部を集めて討論番組を企画した際、失言の可能性がある高市早苗政調会長(52)ではなく、塩崎恭久政調会長代理(62)を出演させたこと。そして時事通信社による4選挙区のネット中継の討論番組で、司会が民主党政権で内閣審議官を務めた下村健一氏と、脱原発を掲げる元NHKアナウンサーの堀潤氏とわかり、自民党候補に出演を見合わせるよう指示したことだった。
コミ戦の結論は毎回同じで「最後まで安全運転を」。危惧された選挙中の突然の逆風も発生しなかった。緩みがちな選挙戦で、最後まで神経をとがらせ続けていたのが、党で選挙を取り仕切った石破茂幹事長(56)だ。石破幹事長は他の党幹部に、「各地の動きが鈍い。もっと指示を出せ」と叱咤し続け、自身の選挙応援も「スポット遊説をもっと入れてくれ」と日程を分刻みで詰め込んだ。「あまりに過密日程で、候補者や随行職員が休息を取れないので、幹事長の日程表にわざわざ“トイレ休憩”を入れた」(側近議員)。夜になるとメールで指示を飛ばし続けた。
安倍首相もまた選挙中、「異常なハイテンション」(周辺)だった。選挙戦最終日の締めの演説も「最後はどうしても(東京)秋葉原でやりたい」と主張。周囲が「騒然とするので、有楽町などもっと落ち着いた雰囲気でどうですか」と進言しても譲らなかった。終盤には、情勢が芳しくなく、側近議員が「入って負けたら総理のせいにされますよ」と諌めた沖縄にも、あえて足を運んだ。
那覇市に宿泊した7月16日夜。翌日に現職首相として48年ぶりとなる石垣島と宮古島の訪問を控えていることもあって、周囲は体を癒やしてもらおうと夕食はホテルで弁当でもどうかと勧めた。ところが本人は「外でステーキが食べたい」と要望。締めのガーリックライスを平らげるまで、2時間近くずっとしゃべりっぱなしだった。
議席獲得には失敗したものの、安全保障上、今後さらに重要となる対沖縄戦略の布石を打った。同日、那覇空港のVIPルームで仲井真弘多・沖縄県知事(73)と会談すると、県が熱望する那覇空港の第2滑走路建設について、5年10カ月の工期をさらに短縮すると約束したという。政権党と付き合う重要性を県側に十分に認識させる訪沖となった。
※週刊朝日 2013年8月2日号