基本的に、亮の芸人としての能力は高いとは言えない。何ができるのかと問われたら、できることはそれほど多くない。「できない人」と言うと、一昔前なら出川哲朗、今ならパンサーの尾形貴弘のようなタイプを想像するかもしれない。しかし、彼らは真の「できない人」ではなく、芸人としてのセオリー通りの行動が苦手なだけで、その分だけ予想外のリアクションで笑いを取れたりする。できない人であることを建前にしているだけで、文字通りの何もできない人ではない。
その点、亮は打てば響く出川のようなタイプでもない。番組の流れの中で、何らかの役割を割り振られたときの亮の動きはきわめて鈍重である。計算された笑いが起きないのはもちろん、態度もどこか投げやりで、それでいて汚れ役になりきる潔さもない。本当に中途半端なのだ。
でも、それがなぜか嫌味にならないのが亮という人間の才能なのだ。誰にとっても、心底どうでもいいと思わせる人間。だからこそ、淳というお笑い界随一の猛毒の作用を和らげることができる。
今でこそおとなしくなったが、昔の『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)では攻めた企画が目立っていた。これ以外の番組でも、若手時代のロンブーの2人は挑戦的な企画、今で言うと過激派のYouTuberがやるような企画を行うことが多かった。髪を派手に染めた2人が無邪気に過激なことに挑んでいく様子はまさに「お笑いパンク」だった。
そんな彼らが当時の若者から熱狂的に支持されたのは、やはりコンビとしてのバランスが良かったからだと思う。やんちゃな淳と優しい亮の対比が絶妙だった。亮に少しでも淳のような計算高さや下世話さがあったら、ロンブーがここまで長く活躍することはできなかっただろう。
亮の存在意義は、老子が説く「無用の用」の原理で説明できる。器は中に何もない空間があるからこそ器として機能する。無駄なものこそが重要。ロンドンブーツ1号2号というコンビは、亮という「大いなる空」によって支えられていたのだ。(ラリー遠田)
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