「いい人とはどうでもいい人のことである」という、やや使い古された決まり文句がある。「他人に何を言われても黙って従うようないい人になりすぎちゃ駄目だよ。言うべきところはビシッと言わないとなめられるよ」という戒めの意味を込めて用いられることが多いフレーズだ。
ここでは、人間がいい人であるということの負の側面について語られている。確かにそれは一面の真理ではあるのかもしれない。いい人だと持ち上げられ、おだてられているようで、単に他人から都合のいいように使われている人というのは存在するだろう。
だが、そもそもいい人であること自体はそんなに悪いことなのだろうか。いい人は悪い人よりも「いい」のだから、やっぱりどちらかと言うと「いい」のではないのか。ロンドンブーツ1号2号の田村亮の復帰会見を眺めながら、そんなことをぼんやり考えていた。
亮はお笑い界でも有数の「いい人」かつ「どうでもいい人」として知られている。「ロンブーは淳だけがいればいい」「亮は何もしていない」「ただその場にいて笑っているだけだ」などと巷では言われている。
実際、ロンブーの2人が出ているテレビ番組を見ていても、亮が特別に何かをしているようには見えない。ただそこにいて楽しそうに笑顔を浮かべているだけだ。鬼越トマホークの坂井良多が別の芸人に放った言葉を借りるなら「お前の役目、カカシでもできるからな」という感じだ。
でも、そんな「カカシ芸人」の亮は、騒動が起きるまでなぜテレビに出続けられたのか。「淳がいるからついでに出させてもらっているだけだ」と決めつけるのは簡単だが、テレビ局も今どき予算には随分シビアになっている。意味のないところに金は払わない。そこに亮がいることで、番組としてはどんなメリットがあり、視聴者はそこから何を得ているのだろうか。