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芥川賞を受賞した『むらさきのスカートの女』(今村夏子著、朝日新聞出版)が発行部数11万部を超えた。純文学としては異例といえる短期間での快進撃。支えるのは、熱い“今村ワールドファン”の存在だ。
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8月下旬、東京・六本木。夕闇に包まれた街に、紫色をまとった20人ほどの人々が集まってきた。『むらさきのスカートの女』の芥川賞受賞を記念して「文喫 六本木」で開かれた読書会「むらさきの夕べ」の参加者だ。
■「むらさき」と「黄色」は同一人物?
同作は、「むらさきのスカートの女」と名付けた女をストーカーのように観察する「わたし」の視点で語られる。彼女と友だちになりたい「わたし」は、自分と同じ職場で働くよう誘導するなど、さまざまな企みを仕掛けていく。
一人称でありながら、三人称のようにすべてを見通す語りが読み手の心をざわつかせる。不意におかしみへも転じる不穏。
今回の読書会は、芥川賞の選考委員の間でもわかれたという同作の解釈を読者同士が共有し、“今村ワールド”について語り合おうと開かれた。
進行を務めたのは同作の担当編集者である四本倫子さんと、掲載誌「小説トリッパー」の池谷真吾編集長。
参加者は3、4人ずつグループを作り、三つの「謎」について話し合う。最初のテーマは「むらさきのスカートの女」と、語り手である「黄色のカーディガンの女」=「わたし」は本当に二人いるのかということ。
「最初は別人だと思って読み始めたが、途中から、むらさきのスカートの女は黄色いカーディガンの女が作り出した妄想じゃないか、と思えてきた」
「どちらの読み方もできる。同一人物として読んでもいいし、別人物として読むと全く違う話になる」
参加者は互いに自分と違う感想に触れて、解釈の揺らぎを楽しんだ。
「一人なのか二人なのか、わかりにくい作品。従来の国語教育だと『主人公の夢だった』とでもして、片付けてしまうこともできるでしょうが、今はもやっとさせたままでいい。文学はここまで自由でいいんだ! と思って感動しました」と話す人も。