池谷編集長はさまざまな意見を引き取って、

「むらさきと黄色は鮮やかな補色の関係。二人が実在するとしたら、互いの距離感や空回りする(「わたし」の)思惑がユーモラスで明るく読める。ところが、むらさきと黄色って、混ぜると黒になる。もしひとりの女の中で渦巻いた妄想だとしたら、鮮やかさは一瞬で消えて暗い話になる。作者の意図したところかどうかはわからないが、作品にちりばめられたものを引き出して読み方を変えてみるのもこの作品の醍醐味ですね」

■ラストは「ハッピーエンド」なのか

 語り手の「わたし」の言葉はどこまでが真実なのか、という疑問が第2のテーマだ。そもそも「わたし」は、本当に「むらさきのスカートの女」と、友だちになりたかったのか。

「『友だちになりたい』と言うけれど、“その先”が何も見えない。彼女と親しくなりたいというより、“誰かと友だちになること”に『わたし』は憧れていたのでは。妄想を通して自己欺瞞があったのでは?」

「妄想と現実が入り混じっている。ホテルの清掃の仕事などはものすごくリアルなのに、無銭飲食をするとか、ちょっとありえないというか、やりすぎじゃない? というところがある」

「わたし」が紡ぐ奇妙な世界で、主観と客観の境い目は曖昧だ。読者はつかみどころのない浮遊感を味わう。

 そしてディスカッションは三つ目のテーマ、「結末は“ハッピーエンド”なのか」へと向かった。いつも立ち寄る公園で、いつも同じベンチに腰かけていた「むらさきのスカートの女」。だがラストシーンで、読者は息をのむことになる。

「ひずんだ人間関係が今後も繰り返されていく、という暗示」
「人間はだれでも自分が思う自分と、人から見える自分との乖離がある。ラストでそれがシンクロしたのだと思う」
「他者をのぞき見したいというほの暗い欲望というのは誰の中にもあって、黄色いカーディガンの女は見たいものを見つくして満足した。喜んでいるのは黄色い女だけじゃなくて、読者も同じ。そうした人間の性(さが)をユーモラスに見せつける作品なのではないか」

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