■中田英寿(サッカー)


 
 Jリーグが開幕し、日本が初めてワールドカップに出場するなど、平成はサッカーがポピュラーなスポーツの一つとなった時代だった。その人気をけん引した最大の功労者は、間違いなく中田英寿だろう。日本が初めて出場したワールドカップ・フランス大会(1998年に開催)の予選では、弱冠20歳ながら主力の一人として活躍。日本人のスポーツファンなら誰もが知る、岡野雅行の決勝ゴールのきっかけを作ったシュートを放ったのも中田だった。そのワールドカップでは3戦全敗だったが、中田のパフォーマンスは欧州のクラブの目に留まり、大会後に世界最高峰のリーグ・セリエAのペルージャに移籍。1998-1999シーズンの開幕戦で、強豪ユベントス相手に2ゴールを決めた鮮烈なデビュー戦を未だにハッキリと覚えているファンも多いはずだ。

 その後も、代表と欧州のクラブで高いパフォーマンスを披露。特に2000-2001シーズンに、当時所属したローマ(セリエA)をリーグ優勝に導くユベントス戦での途中出場からのゴールは、もはや伝説といっても過言ではない。イチローと同様、今まで“日本人がいなかった”舞台で活躍したパイオニアとしての役割は計り知れない。また、日本代表時代には先輩に物怖じすることなく発言し、インターネットを使い自身の考えを述べるなど、新たな時代のアスリート像を作り上げた先駆者でもあった。29歳と早く現役は退いたが、残した印象は今なお強く残っている。

■辰吉丈一郎(ボクシング)

 圧倒的なボクシングセンス、またリング外での言動、どれをとっても“華”があるアスリートの一人だった。「浪速のジョー」の愛称で親しまれ、数々の名勝負で日本人のハートを鷲掴みにした。特に1994年(平成6年)に行われた薬師寺保栄とのフルラウンドの激戦は、今も語り草になっている。その試合はテレビ視聴率が瞬間で65%を超えたという逸話も残っており、いかに日本人が辰吉の“虜”となっていたかがうかがえる。当時の国内最短となる8戦目で世界王者となるなど華々しくキャリアをスタートさせたものの、通算の成績は28戦20勝(14KO)7敗1分と決して栄光に満ちたものではなかった。だが、どの試合も脳裏に焼き付くような試合の連続だった。網膜剥離というボクサーとしては致命的なケガを負いながらも戦う姿は、多くの人々に感動を与えた。

 また、お茶目で気取らない性格に惹かれたファンも多かったはず。その一方でボクシングに対する姿勢は常に真摯で、ボクシングへの思いに関する発言は、どれも重みがあった。劇的なボクシング人生を歩み、魅力あふれる人間性で日本人を魅了した辰吉は日本ボクシング界最高の「カリスマ」だった。

次のページ
グローバルに活躍したアスリートたち