平成が終わる。新たな時代を迎える前に、今一度「平成30年」の日本プロ野球を振り返ると、そこには数々の優良助っ人たちがいた一方、様々な理由で期待外れに終わった男たちがいた。1989年(平成元年)以降に在籍した“平成ダメ助っ人”を球団別に選出したい。
■西武
アーキー・シアンフロッコ
2年連続で30本塁打を放ってリーグ優勝に貢献したマルティネスに代わる新外国人として1999年に西武に入団したのが、シアンフロッコだった。マルティネスの解雇の理由が「全く守れなかった」こと。それを教訓に、守備の万能性とパワフルな打撃を併せ持つ選手という触れ込みだったが、開幕から全く打てずに低空飛行。計15試合で打率.163、2本塁打、5打点に加えて、守備も乱れて5失策。4月末に2軍降格となり、そのまま退団となった。同年、西武はリーグ優勝を逃し、その年に在籍した外国人4人(シアンフロッコ、ブロッサー、ジンター、ポール)の本塁打数を合わせても、マルティネス一人の30本塁打に並ぶことができなかった。その中でシアンフロッコは、推定年俸8000万円ながら最も打てなかった。
■ソフトバンク
ブラッド・ペニー
まさに「史上最悪」と言えるだろう。ドジャース時代の2006年に最多勝に輝くなどメジャー通算119勝の実績を引っ提げて来日。しかし、明らかな調整不足のまま開幕を迎えると、初登板初先発した開幕5戦目の楽天戦で3回1/3を7安打6失点(自責4)で計5盗塁を許して黒星スタート。すると試合後に右肩の痛みを訴えて登録抹消。検査では「異常なし」と診断されたが、本人の希望で帰国。再検査でも右肩に異常は見受けられずに再来日するも、全くのやる気なしで5月8日に退団が決定した。球団としては2億円以上の大金を投じて獲得したが、結局1試合64球を投げたのみ。さらに帰国後に自身のTwitterで日本に対する不満、日本野球を罵倒する発言を繰り返してファンの怒りは増幅。たった1試合で2億円以上を稼いだ給料泥棒として、今現在も後味の悪さを残している。