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2020年7月に開催される東京オリンピック。1964年の東京大会以来、日本で二度目となる夏季オリンピックの開催までには、56年の時間を要した。実は、その間にも、日本の各都市が何度か開催に名乗りを上げていた。招致の立役者たちが、オリンピックを通して日本をどう変革しようとしていたのかを描いたノンフィクション『東京は燃えたか』でも紹介した、オリンピック招致の舞台裏とは? 名古屋、大阪と五輪招致に失敗した日本が、もう一度「東京五輪」で勝負に出ることに――。
【五輪開催に名乗りを挙げた福岡だが、東京に負け、次々にPRポスターが取り外された…】
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大阪がオリンピック1988年大会に名乗りを上げ敗退してから3年余りが過ぎた2004年の後半、「オリンピックをもう一度」の運動が再スタートした。
「地元で夏季オリンピックをやってメダル獲得の倍増を」
JOCの選手強化本部長だった松永怜一、副本部長の福田富昭、JOC理事の河野一郎、ハンドボール協会専務理事の市原則之らの間で、話が持ち上がった。
2000年開催のシドニーの大会以前、夏季オリンピックの日本選手団のメダル獲得数は1964年の東京が最高だった。「金メダル16」は今も破られていない最多記録である。
1988年のソウル大会あたりから不振が目立ち始める。文部省もJOCもメダル獲得倍増を目指す新システムづくりに乗り出した。
新しい取り組みの効果が表れ、04年8月開催のアテネ(ギリシャ)の大会で、日本は37のメダルを獲得した。市原が語る。
「アテネで何とか世界五位に戻ったが、アメリカ、中国、ロシアなどの巨象を破って3位以内に入るには、やはり地元で開催を、と私らが言い出して、東京都など有力な地方自治体に働きかけることにしたのです」
市原たちはJOC会長の竹田恆和にも地元開催を説いた。竹田は旧皇族の竹田恒徳の三男で、01年から会長の座にあった。小泉純一郎内閣で総務相兼国民スポーツ担当相だった麻生太郎にも「日本でオリンピックを」と訴えた。麻生は1976年のモントリオール(カナダ)の大会のクレー射撃選手で、当時、日本クレー射撃協会の会長だった。