市原が振り返った。「麻生さんは福岡県選出ですから、福岡市でオリンピックをという気持ちがあった。だから、私も『福岡でやりましょうよ』と言った」
竹田は05年1月、JOCの年頭のあいさつで正式に招致を表明した。
JOCで後に東京五輪招致委員会理事として奮闘する中森康弘が言う。
「05年に福岡市長が東京にきたとき、たまたま話をする機会を持った竹田会長が、何気なく『手を挙げてみませんか』と投げたのです」
呼応して、人口約140万人の福岡市が真っ先に名乗りを上げたのだ。
福岡市長は1998年12月に初当選して二期目の山崎広太郎である。山崎は2005年4月、東京のJOCの役員会で「福岡招致」の意思を示した。決断の内実を明かす。
「何かJOCに仕組まれた感じもないわけではない。直接、『出てくれ』とは言わないけど、『福岡は出るべき』と言っていた。ですが、私はその場でやろうと決めた。前々から東京一極集中ではだめで、分極すべきという考えがあり、オリンピック開催はチャンスだと思った」
もう一点、山崎は「アジアの中の福岡」を意識した。
「福岡は歴史的にアジアとの結びつきが強い。福岡市民は根っからアジアに親近感を持っている。上海まで1000キロ、東京も1000キロで、同じ距離です。アジアを強調したオリンピックを、と思い、私なりの絵を描いて取り組んだ」
01年7月にIOC会長がロゲに交代したのも好機、と受け止めた。ロゲは「商業主義オリンピック」から、「適切な規模のオリンピック」へ、改革路線を打ち出した。
福岡市は1995年にユニバーシアード福岡大会、2001年に世界水泳選手権大会の開催経験があり、市民も国際的なスポーツ大会に協力的で、関心も高かった。だが、オリンピック招致について、市民や地元の経済界などから強い要望の声が上がったわけではなかった。着目した山崎が市長主導で走り始めたのだ。
といっても、立候補都市の決定権を持つJOCや各競技団体には、オリンピックをやるなら、福岡よりも、施設が整っていて世界の支持を得やすい東京で、という空気が強かった。
「オリンピックをもう一度」の提唱者の一人の市原は05年7月15日、東京・内幸町の帝国ホテル東京で開かれたパーティーに出席した。ヨット仲間の東京都知事の石原慎太郎も駆けつけ、スピーチを述べた。市原は会場で石原に声をかけた。その場面を回顧する。