西塔は、第2世天台座主・円澄(寂光大師)が開いた場所で、釈迦堂を中心に研修道場などがある。これら諸堂から少し離れるが、織田信長の延暦寺焼き討ちから唯一逃れたお堂・瑠璃堂や法然が修行したお堂で知られる青龍寺なども点在している。

 横川は第3世天台座主・円仁が開き、元三大師堂はじめ道元が得度した場所など各宗派の開祖由縁の旧跡が多数残る。また、11月25日までは「比叡のもみじ」と銘打ったもみじまつりが開催されている。

 これら地域を巡回するシャトルバスが運行しているほど、広い境内すべてが延暦寺なのである。

●度重なる延暦寺の厄難

 とはいえ延暦寺も平穏な1200年を過ごしていたわけではない。平安時代中期に3代座主・円仁派と5代座主・円珍派が対立、円珍は比叡山を降りふもとの園城寺(おんじょうじ)へと移った。しかし、対立は激化、園城寺は延暦寺から度重なる攻撃を受け、数十回に及ぶ焼き討ちに合っている。延暦寺を山門、園城寺を寺門と称していたことから、「山門寺門の抗争」とも呼ばれている。

 そして1571年9月30日(旧暦9月12日)、織田信長の延暦寺焼き討ちが行われた。延暦寺の山内はことごとく焼き払われ、守護神であった日吉大社も同様に灰燼に帰した。この時、信長は園城寺山内に本陣を敷いたという。

●焼き討ち後の延暦寺の運命

 延暦寺の僧たちは、甲斐の武田信玄に助けを求めるも信玄の逝去で復興は果たせず、信長亡き後も秀吉から復興の許可も得られないまま、再興までに13年の月日を要している。この焼き討ちについては、さまざまに論じられているが、今も山内に古い仏像や寺宝が残されているのは、焼き討ち後に各地から延暦寺復興のために寄せられたものであり、延暦寺に対する信仰の深さの表れでもあろう。

 今回の「至宝展」では、唯一焼き討ちから逃れた瑠璃堂の本尊・薬師如来像や自ら泳いで助かったと伝わる釈迦如来なども公開されていた。

 徳川家光によって再興された根本中堂は、現在10年をかけた大改修の最中である。2026年までその姿を拝することはできないが、堂内での参拝も可能で改修工事の様子も足場の上から見ることができる。

 天台宗のお山、比叡山のもみじまつりは横川地区だけで行われているが、山内のあちこちに紅葉が広がり、京の都の鬼門封じとされるお寺を、結局私は2日をかけてもすべてのお堂を回りきることができなかった。だが、紅葉狩りの選定としては、美しい景色といっしょに英気をもらえるよい場所を選んだのではないかと思っている。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)

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