淡路町線と御茶ノ水線がダイヤモンドクロスする絶景を神田消防署の望楼から撮影。手前が神田川に架かる昌平橋。外神田二丁目~淡路町(撮影/諸河久:1967年12月4日)
淡路町線と御茶ノ水線がダイヤモンドクロスする絶景を神田消防署の望楼から撮影。手前が神田川に架かる昌平橋。外神田二丁目~淡路町(撮影/諸河久:1967年12月4日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は都電路線が四通八達していた神田の街角を走る都電だ。

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 本連載で取り上げた都電最大のターミナル須田町停留所を筆頭とする神田の街には、都電の路線が網の目のように張り巡らされていた。件の須田町から靖国通りに敷設された両国橋線を西に行くと、淡路町、小川町(おがわまち)と停留所が続き、小川町から九段線に路線名称が変わり、駿河台下を経て神保町に達していた。

「都電王国・神田」の異名にふさわしく、これら靖国通りの隣接停留所のすべてが、交差点か分岐点だったのだ。(駿河台下は1944年5月に廃止された錦町線との交差点だった)

 一例をあげると、三田から神田橋線を走ってきた37系統駒込千駄木町(後年千駄木二丁目に改称)行きは、小川町で右折して両国橋線に入る。すぐ隣の淡路町で左折して淡路町線に入り、次の松住町(後年外神田二丁目に改称)の手前で御茶ノ水線と交差。その次の旅籠町(後年外神田三丁目に改称)で左折して上野線に合流していた。

昌平橋南詰から外神田二丁目の交差点を撮影。JR総武本線高架橋は健在だが、残念ながらリニューアル工事中(撮影/諸河久:2019年9月25日)
昌平橋南詰から外神田二丁目の交差点を撮影。JR総武本線高架橋は健在だが、残念ながらリニューアル工事中(撮影/諸河久:2019年9月25日)

■神田消防署の望楼から撮った37系統

 写真1枚目は神田消防署(現在はJR秋葉原駅北口に移転)の望楼から撮った淡路町線を走る37系統三田行きの都電で、ちょうど外神田二丁目(旧松住町)交差点で御茶ノ水線と平面交差するシーンを撮影した。37系統(三田~千駄木二丁目)が廃止される6日前のことで、「去りゆく都電を望楼から撮りたい」というリクエストに消防署が応えてくれた一コマだ。

 大きく写る美しいタイドアーチ橋が、国鉄(現JR)総武本線の高架線で、1932年に竣工している。淡路町線の松住町や旅籠町の停留所名称は1965年の町名改正で、無味乾燥な「外神田」に改称されてしまい、利用者の不評を買っていた。

 カラーフィルムは35mm判コダック・エクタクロームXを使用。撮影から半世紀を経て若干の退色が認められるが、往時の初冬の色彩が再現されている。トラス橋背後の秋葉原電気街には「トリオ ソリッドステート」というオーディオメーカーの電飾看板が写っており、その配色とともに昭和の時代を感じさせてくれる。

 画面手前には、神田川に架橋された石造りの擬宝珠をいただく昌平橋が写っている。その奥が外神田二丁目の交差点で、37系統が走る淡路町線を左右に横切る御茶ノ水線には13系統(新宿駅前~水天宮前)と19系統(王子駅前~通三丁目)が走っていた。 

 現況写真はリニューアル工事中のJR高架橋を背景に昌平橋の南詰から撮影した。背後に位置する淡路町から来た外堀通りは昌平橋で神田川を渡ると、すぐに外神田二丁目の交差点を左折して、御茶ノ水方面に向かっている。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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