哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
この記事の写真をすべて見る* * *
今年も「お墓見」の季節がやってきた。一昨年の暮れに、釈徹宗先生が住職をされている大阪府池田市の如来寺のお世話で、合同墓を建てた。如来寺の檀家(だんか)さんたちのためのお墓が「法縁廟」、私の主宰する道場・学塾である凱風館の門人たちのためのお墓が「道縁廟(びょう)」。
2基が景色の良い山の上に並んでいる。年に1度、法要を営み、それからお墓の前でお弁当を広げて、シャンパンなど喫するのが「お墓見」である。
合同墓を建てるきっかけになったのは、独身者や子どものいない門人から切実な「墓の悩み」を伺ったことである。累代の墓や親たちの墓については最後まで責任をとるつもりはあるけれど、さて自分たちはどの墓に入ることになるのか、自分たちの供養を誰がしてくれるのか、それを考えると不安になるというのである。
「誰が供養してくれるのか」というのは霊的には重要な問題である。能には「跡(あと)弔ひて賜(た)び給へ」というフレーズがよく出てくる。自分の死後の供養をお願いしますという訴えである。その確約を得てはじめて人は成仏できる。
自分が死んだら骨はそこらに撒(ま)いてくれ、供養など無用だと言い張るタフな人もたまにいるけれど、人類は葬送儀礼を始めたことで他の動物と差別化された種である。生物学的に死んだ後も、人は「死者」というステータスにおいて、しばらくの間生者たちに「存在するとは別の仕方で」影響を与え続ける。死者を適切に弔うことでその「影響」は統御できる。ごくリアルな問題なのである。
凱風館は道統・学統を伝える学びの場なので、私が死んだ後も継続的に活動する。だから、この教育共同体が継続する限り、供養してくれる後世の人には事欠かない(はずである)。
その人たちが毎年「お墓見」に集って、泉下の人について、「どんな方だったんですか?」と訊(き)いて、それについて年長者が「あの人はね……」と遠い目をして思い出を語る。というのが私の夢なのである。
共同体はともに子どもを育て、ともに死者を供養することで結びつき、存続する。そういう人類学的真理は時代が変わっても変わらない。
内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数
※AERA 2021年10月4日号