荻野が料理に興味をもった理由がふるっている。「母親がものすごい料理下手で、なんで友達の家のカレーはこんなに美味しいんだろう?」と疑問に思い、トライアンドエラーを繰り返していたらハマってしまったという。高校は、地元の愛知県蒲郡市の進学校に入学したが、当時は就職氷河期で、大学に進学するより手に職をつけることを考えた。一時は寿司職人も考えたが、沢木耕太郎の『深夜特急』を読んで、「イタリア料理が面白そう」と大阪の辻調理師専門学校に入学。ところが、フランス料理の奥深さを知るとあっさり進路を変更。卒業後はフランスのリヨンにある分校で1年間修業したが、これが肌に合ったようで、どっぷりとフランス料理に魅入られてしまった。

「日本料理と違い、フランス料理は一滴のソースを作るのに玉ねぎを入れ、ワインを入れ、その前に蜂蜜を少し入れと、とにかく足し算です。それで複雑な奥行きのある味を作り上げる。日本にないカルチャーは、とにかく面白かった」

 帰国後は静岡県の浜松や岐阜県の多治見で1年半ほど働いた後、東京のフランス料理店に入った。料理人には、ミシュランの星がついた有名店で経験を重ねる生き方もあるが、彼は違った。

「経験とは積むものではなく、並べるものだと思っています。自分に足りないカードを集める感覚ですね。だから、加工する技術が足りないと思ったら、そういうお店に行きました」

 料理人という職業は信じられないほど流動的で、面接に行ったら雇用契約書や給料の提示もなく、いきなり「今日から来い」という世界だ。そんなふうにして4軒のフランス料理店で働き、5軒目で料理長を任されたあと、2007年に28歳で独立した。荻野の中では、日本でしばらく働いた後、フランスに渡る予定だったが、諦めざるを得ない理由があった。23歳の時にブルガダ症候群といって心室細動の発作が出る病が発覚したのだ。対症療法として小型の植え込み型除細動器を埋め込んだが、フランスではメンテナンスに医療保険が使えないことなどを考えて、フランス行きを断念した。植え込み型除細動器は5年ごとに交換するが、最初の交換が28歳の時だったのだ。

(文/奥野修司)
                                                                 
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