登城口からの道は整備されてはいるが、足元は良好とまではいえない。だが曲輪(くるわ)や土塁、石垣、堀など当時の遺構も多い。また遺構ごとに説明看板が立てられているので、城散策初心者でもどのような遺構なのかわかりやすい。

 光秀は同地で生まれ、後に明智城へ移ったとの説もあるが、小和田氏によると、現在は可児市の明智城説が有力だという。

 光秀が史料に登場するのは、信長が足利義昭(よしあき)を奉じて上洛する1568年頃からである。この頃の光秀は、室町幕府15代将軍となる義昭と信長の双方に仕えていたが、義昭が信長と敵対すると信長についた。その後、“比叡山焼き打ち”での活躍により、信長に比叡山延暦寺の監視と、領地支配を任されて築城したのが坂本城だ。

 坂本城は琵琶湖湖畔に築かれた湖城で、信長の琵琶湖水運を押さえる拠点となった。後に信長が対岸に安土城を築城する。当時、最も高速の移動手段だった船で、信長のもとに駆け付けることもできた。

 だが、坂本城は宅地化の影響を受け、現在はほぼなにも残されていない。琵琶湖湖畔には、坂本城址公園が整備されてはいるが、残念ながら本来の坂本城の遺構はない。

「周辺を散策し、地形や琵琶湖の佇まいから、かつての栄華をしのぶことはできます」(小和田氏)

 光秀は坂本城を拠点に信長の畿内平定に尽力しながら、並行して丹波平定にも駆りだされた。光秀が丹波平定の拠点として京都市郊外に築いた城が周山(しゅうざん)城だ。京と若狭を結ぶ周山街道を押さえる要衝に築城されている。

「主郭(しゅかく)周辺に残された崩落した天守台を始めとする石垣群は必見です。なかには10段ほど積み上げられた“高(たか)石垣”も残っています」(小和田氏)

 ただし徒歩圏に駅がなく、京都駅からバスに乗るか、ふもと付近にある道の駅の駐車場を利用するしかない。

 光秀が丹波平定の攻城戦で苦戦した城が、“丹波の赤鬼”と恐れられた、赤井(荻野)直正の居城・黒井城だ。1579年の攻略後は、光秀重臣の斎藤利三(としみつ)が居城とした。現在は土塁や天守台の石垣などが残る。

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